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「そうか、逃げられたか……」
報告を受けた中川館長は、大きく溜息をついて肩を落とした。随分と落ち着きは取り戻していたものの、憔悴していることは傍目にも明らかだった。しかし、剛三は同情する素振りも見せずに切り出す。
「中川館長、約束どおり『其の瞳に映るもの』は引き揚げさせてもらって構わんかな」
「どうぞ、お約束ですから」
中川館長は、力なく愛想笑いを浮かべて答えた。
「どうか悪く思わんでくれ。これは我々にとってかけがえのない大切な絵なのだ。また機会があれば声を掛けてほしい。中川館長とは、今後も末永く付き合いを続けたいと考えておる」
それは剛三の本音だった。彼についてはなかなかの好人物と評価している。絵画や美術についての造詣が深く、愛情もあり、これほど美術館館長に相応しい男はいない。今回のことは、本来なら彼には関わりのないことであり、いずれ何らかの形で埋め合わせをするつもりでいた。
「ありがとうございます」
中川館長は丁寧に礼を述べ、頭を下げた。
剛三は貫禄のある顔で頷くと、悠人に向き直って言う。
「悠人、行くぞ」
彼はちょうど『其の瞳に映るもの』を黒い布に包み終えたところだった。それを抱えて立ち上がったのを確認すると、彼とともに、展示室の正面入口からゆったりとした足どりで出ていく。
展示室の外には、スーツに着替えて白手袋をはめた篤史が待ち構えていた。礼儀正しく深々と一礼して剛三を出迎える。彼らしからぬ態度だが、これは会長付きの運転手という設定を演じているにすぎない。剛三は目配せして彼を従えると、悠人とともに、三人で堂々と美術館をあとにした。
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