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「良かったね、花さん」
帰りの車中、助手席の澪はニコニコしながら声を弾ませた。ペットボトルのミネラルウォーターに手を伸ばし、ひとくち流し込むと、運転席の悠人に振り向いて上機嫌で話を続ける。
「私ね、怪盗ファントムやって良かったって、ちょっと思っちゃった」
「怪盗なんてただの犯罪者だって、さんざん文句を言ってなかった?」
「うん、だからちょっとだけね」
澪はシートベルトを伸ばして身を乗り出し、親指と人差し指をほとんどくっつける仕草を見せた。悠人はちらりと横目を向けると、ハンドルを握ったまま、何か含みのありそうな笑みを浮かべる。
「えっ? なんですか?」
「澪は本当に流されやすいなって」
「そんなことないと思うけど……」
澪は小首を傾げる。素直だと言われることはよくあるが、流されやすいというのはまた別だろう。
「その自覚のなさが余計に危険なんだよね。流されやすいというより、絆されやすいっていうのかな。ちょっと情に訴えてお願いすれば、何でも言うことを聞いてくれそうな感じだし」
「私、そこまで馬鹿じゃありません」
「そうだね。でも、キスくらいなら」
ゴトン--澪は動揺してペットボトルを滑り落とした。足元で転がって止まる。
彼の口からそんな言葉が出るとは思いもしなかった。もちろん、からかっているだけだということはすぐにわかる。その意味ありげな微笑にムッとして眉を寄せると、ペットボトルを拾い上げ、負けるもんかとばかりに挑戦的に切り返す。
「だったら、試してみてください」
「澪、寂しいからキスしていい?」
もはや馬鹿にされているとしか思えなかった。いくらなんでも、それで心を動かされる人間はいないだろう。ましてや、今さら澪にこんなことを言うなど、神経を逆なでするだけである。なぜなら--。
「……私をふったこと覚えてます?」
澪の初恋の相手は悠人だった。今となっては他に好きな人がいるので、彼に恋愛感情など持っていない。だが、当時は真剣に好きだったし、告白して断られたときは傷ついていたのだ。
しかし、悠人は無神経にもくすくすと笑い出す。
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