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「さすがに8歳の子とは付き合えないからね」
「あ……」
言われてみれば、確かにあのときは8歳だった。自分が子供だという自覚もあまりなく、恋愛対象として見てもらえないことに深く落ち込んだが、今になって考えるなら至極当然といえるだろう。そう思うと、急に笑いがこみ上げてきた。
「そういえばそうですよね」
「ようやくわかってくれた?」
彼と恋愛に関する話をしたことは、これまでほとんどなかった。告白したあのときくらいである。しかし、今のこの雰囲気なら訊けるような気がして、ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみる。
「師匠には彼女とかいないんですか?」
「学生の頃はいたけど、それ以降はいないよ」
不躾な質問にも動じることなく、悠人はハンドルを握ったまま淡々と答える。
「どうしてですか?」
「そんな暇、あると思う?」
悠人は橘家に住み込んでおり、公私の別なく剛三に仕えてきた。そのうえ、親同然に澪たちの面倒を見て、武術の稽古まで引き受けている。彼自身のプライベートな時間は、ほとんど皆無といってもいいだろう。剛三がそこまで彼を拘束していることに、自分もその一端を担っていることに、澪はこのときあらためて気付かされた。ペットボトルを両手で握りしめてうつむく。
「剛三さんは、僕と澪を結婚させたいみたいだけどね」
「……えっ?!」
澪は大きく目をパチクリさせて、運転席の悠人に振り向いた。しかし、その横顔からは思考も感情も読み取れない。いつものように薄い微笑を湛えたまま、優しく落ち着いた声で言葉を繋いでいく。
「澪の気持ちを無視してまで強引に結婚させる、ってことはないだろうから安心して。いくら剛三さんでもそこまではしない。孫娘を不幸にしようだなんて思っていないはずだからね。嫌だったら断ればいいだけのことだよ」
「そんな勝手な話、師匠だって困りますよね」
澪は当惑しつつも、笑い飛ばすように極力明るくそう言った。
しかし、悠人はそれに同調しようともせず、前方を見つめたまま真剣な顔になると、誰もいない道路を走らせながら静かに答える。
「僕は、澪となら結婚してもいいと思ってるけどね」
「…………」
澪はとっさに何の反応もできなかった。ただただ唖然とするだけである。別に結婚すると決まったわけではないが、悠人がそう思っているというだけで、澪にとっては十分すぎるほど衝撃だった。
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