scene2 いちばん近い他人

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美夜の手を離れたグラスが、亮介のスーツに転げ落ちる。 「あ! ごっ…ごめん」 「いいよ、ほっとけ」 「でも、シミ……」 我に返ったように腕から抜け出ようとする美夜を、亮介はさらにしっかりと抱きしめた。 「……寝るまでこうしててやる。とっとと寝ちまえ。……高くつくぞー、このツケは」 「……」 美夜は、吐息ともため息ともつかない、深い息を吐いて、浅く笑った。 「……うん。ごめん。……ありがと」 同期入社の美夜を初めて見た時から、気になっていた。 人前で笑う彼女は、どこか地に足がついていない感じで。 仕事で組み、共に過ごす時間を重ねるにつれ、亮介は美夜のことを、近い、と思い始めた。 価値観やものの考え方。 そしてきっと、深いところにある、隠している傷のようなものまでもが。 お前は、俺だ。 朱里に出会う前の、誰も愛せないと思い込んでいた、あの頃の俺だ。 お前のことが、俺には解ってしまう。 お前もたぶん、俺のことが自然に理解できるんだろう? 俺たちは、似てる。 もしかしたら俺の魂は、朱里よりもずっとお前に近いところにある。 でも、だからこそ、だろうか。 美夜の眼差しの中に時折揺らめく亮介への思いを、亮介はもうずっと長い間、気づかないふりをしてきた。 そして美夜も、それを悟られることを望んではいない。 亮介はそう感じていた。 こんなふうに腕の中に美夜がいれば、正直、男の欲が刺激されない訳がない。 愛おしい。間違いなく俺はそう思ってるんだから。 でもそれは、女への愛情じゃない。 いや、愛の形のひとつかもしれない。 けれど今以上の未来は、……そこにはないのだ。 亮介の胸に凭れて、緩く寝息をたてはじめる美夜の髪を撫でてやりながら、亮介は朱里と出会う前の、漂うように生きていた自分を思い起こしていた。 俺は、あの頃の自分をただ、抱きしめてやりたいだけなんだ。 お前もどこかで、誰かを愛したいと思ってる。その思いが、たまたま近くにいる俺に向いてるだけなんだ。 美夜お前、気づいてるか? お前は俺と二人でいる時は、滅多に笑わない。 拗ねたり、怒ったり、素直な感情を見せてはくれるけど。 それは、取り繕わなくてもいい相手への、お前なりの甘えかたなんだろうけど。 お前を心からの笑顔にしてやりたい。 でもそれができるのはきっと、俺じゃない。 俺じゃ、ないんだ。
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