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つくり笑顔の私の前で、ただ、時間だけが静かに流れていく。
あなたは黙って、ずっと海を眺めている。
オープンカフェから見下ろす9月の終わりの海には、真夏のような浮き立つきらめきはない。
水平線から離れて細かくちぎれていく雲。
その行方を、あなたは追っているように見えた。
口数の少ないあなたと私は、いつも、こんなふうに一緒に過ごしてきた。
言葉を交わさなくても、そこには満ち足りた暖かな時間があった。
なのに。
なぜ今私は、わざわざ笑顔を作っているのだろう。
笑顔を作らなければいられなくなったのは、いつ頃からだったろう。
なぜ一緒にいるのに、こんなに風を冷たく感じるのだろう。
カップを持つ指が、凍えているみたい。
コーヒーもすぐに冷めてしまう。
あなたがふと、何か言いたげに私を見た。
その先の言葉を聞きたくなくて、私は視線を逸らすように俯いた。
テーブルにぽつり、ぽつりと舞い落ちるのは、その香りとともに風が運んだ、オレンジ色の小さな金木犀の花粒。
テーブルの周りで日除けのように蔓を伸ばす朝顔にも、もう蕾はない。
『終わりにしよう』
耳にではなく、心に問いかけられた気がした。
言わせてしまった。
言わせたのは、私だ。
いつの間にか、ついて行けなくなったのは、私。
心からの笑顔を失くしたのは、私。
俯いたまま、金木犀の花粒を見つめる私の耳に、あなたの立ち上がる音が聞こえる。
『ちゃんと、笑って』
もうひとつ、私の心に言葉を落として。
足音が、こんなに大きく響くものだったなんて。
ごめんなさい。
さよなら。
そんな言葉も言えずに、ただ俯く私は、金木犀の花粒を見つめる。
足音が、遠ざかっていく。
私はただ、花粒を見つめる。
足音が、聞こえなくなる。
ひとつ、またひとつと降ってくる花粒は、私の涙だったのかもしれない。
あなたの気配が消えた。
ぽつり、ぽつりと。
私の代わりに泣いてくれる金木犀の、甘やかな香りだけを残して。
Fin.
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