テノール

10/16
前へ
/2447ページ
次へ
「あなた、最近帰りが遅いんですね?」 「ああ、厄介な仕事でね……。ほら、最近北海道で震度五強の地震があっただろ?」 「地震?……そう言えば」 「まあ、これ以上は君に言っても解らないと思うが、その地震がきっかけで残業続きなのさ」 「そうですか……」 一日の中で、ほんの数分しかない夫婦の会話が終わる。 「さて、寝るか」 ビールを飲み干してから立ち上がる俊介。 風呂に入りパジャマに着替え、理香子が寝室の扉を開くと、彼はベッドの中で本を読んでいた。 ライトグリーンの表紙カバー。 確か昨日も同じ本を読んでいたと思う。 『何を読んでいるんですか?』と聞いても 『君に教えても解らないだろう?』と返ってくるだろうから聞かない。 鏡台の椅子に腰を降ろし、就寝前の保湿クリームを塗りながら鏡の中の自分を見詰める理香子。 ――あれから、何年経ったのだろう? 俊介と出逢いからの月日を指折り数えてみる。 すると、五年前の雨の日、新宿の駅前で途方にくれている自分が浮かんだ。
/2447ページ

最初のコメントを投稿しよう!

499人が本棚に入れています
本棚に追加