テノール

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━━━━━━━━━ ――電車に乗る前は、雨など降っていなかった。 なのに降りたら、この豪雨。 ……いくらバックの中を探ろうと、傘など用意した記憶は全く無い。 駅前交差点。カバンを頭上に上げて信号の青点滅に走る人々。 軒下からそっと片手を伸ばすと、激しい雨に打たれて、無数の雨粒が彼女の手のひらの上で弾け跳んだ。 『しょうがない、店まで走るか!』 覚悟を決めて片足を一歩踏み出した時 『あの~』 突然、背後から声が聞こえた。 『えっ?』 ヒールの爪先を止めて、声の方に顔を向ける理香子。 背後には、深い青系のスーツをビッシリと着こなした、黒緑眼鏡の男が立っている。 男は遠慮がちに、こう言った。 『突然すいません。 傘が無くてお困りのように見えたので……つい声を掛けてしまいました』 尚一層、路面に激しく叩きつけられる雨。 『良かったら目的地まで送ります』 男はそう言うと、黒い傘を雨の中に広げる。 ――それが夫、俊介と理香子の出逢いだった。
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