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「田島さん。得意先行ってきます。遅くなると思いますので、そのまま直帰しますよ。」
そう言うが早いか、ルーム長の返事も聞かず、希久美は上着を持ってオフィスを飛び出た。とにかく、今はここにはいられない。泰佑と同じ空気を吸うなんてありえない。落ち着くまで外に居よう。そうだこういう時は、何も考えず髪の毛をいじるのが一番だ。彼女は行きつけのヘアスタジオへタクシーを飛ばした。
「希久美。ここだ、ここだ。」
先に席に着いていた義父が、彼女を呼んだ。
「おそかったな。まあいい。ここに座れ。」
「お義父さんと恋人じゃないのに、なんで隣に座らなきゃならないの。」
「文句を言わず、今日は素直にここに座れ。」
義父は笑ながら、椅子を引いて希久美を招き入れた。
どんなに憎まれ口をきいても、希久美は義父に逆らえなかった。感謝の気持ちが大きすぎるのだ。希久美を産んで早くに離婚した母は、愛娘を育てるために必死に働いた。シングルマザーとして様々な迫害や屈辱にさらされながら秘書課の契約社員として働いていた母だったが、会社の役員だった義父が母の誠実な仕事ぶりと生き様に惚れ込んだ。エリートで、しかもなうてのプレイボーイとして独身貴族を貫いてきた義父が、なぜ子持ちの契約社員にプロポーズしたのかは、今でも七不思議として社員の話題となっている。希久美にしてみれば、連れ子の自分を、わが娘の様にかわいがってくれたことよりも、自分を育てるために長年苦労してきた母を愛し慈しんでくれていることに、本当に感謝しているのだ。
顔に不満の表情を浮かべながらも、素直に引かれた椅子に腰かけた。
「さて、今夜の料理は何にする?」
「なんでもいいわ。お義父さん選んで。」
「珍しい。今夜は人任せか?」
「忙しかったから…。」
いつもと違う様子に、義父は思わず娘の顔を見た。
「おや、おれとの食事の為に髪をセットして来てくれたのかな?」
「暇だから…。」
「言ってることがむちゃくちゃだな…。心配ごとでもあるのか?」
「ストレスがそれなりにね。」
「今の部署がつらいなら、もっと楽な部署への異動を、お前の会社の役員にお願いしてやるぞ。」
「余計なことしないで。大丈夫だから。」
義父のおせっかいを迷惑がる表情を見せながらも、母と同様に、義理の娘にも思いやりを見せてくれる義父に希久美は感謝した。
「青沼取締役。遅くなりました。」
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