オキクの復讐

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 内外野の部員が、捕手である彼の名を呼ぶ。菊江はこれで彼の名前を知った。そして、彼が内外野の野手に指示を飛ばし、彼の声を知った。 「よっつ!よっつ!」  彼は、自分の声のキーを一つ上げた甲高い声で、外野へバックホームを指示する。後から知ったのだが、大きい声というより甲高い声の方が、外野によく聞こえるのだそうだ。短い波長の方が観測者まで減衰が少なく届くということらしい。野球選手は経験値からそれを知っていた。実のところ、彼の普通の声すら聞いたことが無い菊江だが、シートノックの声で十分に満足していた。  部活が終わった今でも、学園で彼を見つけるといつまでも目で追ってしまう。もはやそれは菊江の習慣となっていた。そんな時は、まわりのことをまったく忘れてしまう。今も親友のテレサとナミが、彼を見つめる菊江のだらしない顔にあきれて、ため息をついているのだが、菊江は全く眼中になかった。テレサが読んでいたファッション雑誌を丸めてメガホン代わりにすると、菊江の耳元に近づけてがなりたてた。 「オキク!あんたの憧れの先輩はもうすぐ卒業よ。」 「そう、先輩の部活が終わったらコクルって言っていたのに、いままで何もしないのはどういうわけ。」ナミも参考書を閉じて菊江に詰めよった。 「何もしてないわけじゃない…。」 「じゃなにしたの、言って御覧なさい。」  ナミの追及に、菊江は自信のない小さな声で答えた。 「先輩に渡す手紙を書いている…。」 「で、で、で、手紙渡したわけ?」  テレサが身を乗り出してきた。 「毎朝持って学校くるんだけど、渡せなくて…。」 「今日も持ってるの?」 「ええ、持ってるけど…。」 「でもさ、今日も渡せてないってことは…。いつ書いた手紙持ってるの?」  いつもながらナミの指摘はきつい。 「夕べ書いた…。」 「えっ!夜に書いた手紙を毎朝持ってきて、渡せなくてまた夜に書きかえて…。」 「あんた、そんなこと毎日繰り返しているの?」 「ええ、まあ…。」 「ばっかじゃない!」ナミとテレサの非難の合唱に、菊江は言い返す言葉が見つからない。 「ほら、手紙出しなさい!」  テレサとナミが、菊江の手紙を奪った。 「そう、来るのよ!」  ふたりの親友はもがく菊江の両腕を取って、校庭へと引きずっていった。そして昼休みも終わり、校庭から戻ろうとする泰佑の前に、容赦なく菊江を投げ出したのだ。
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