オキクの復讐

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 投げ出された菊江は、泰佑の前でバランスを失った。倒れそうになる菊江の体を泰佑が思わず抱きかかえた。慌てて泰佑の腕の中から態勢を立て直した菊江だったが、恥ずかしさのあまり泰佑の顔も見られずにひたすら謝った。 「すみません。すみません。」  しかし泰佑はそんな菊江には目もくれず、自分の行く手を阻んだ見知らぬ女子生徒に、小さく舌打ちして、立ち去ろうとする。菊江は両手で握りしめた手紙を慌てて差し出した。 「先輩。読んでください。」  菊江は胸が苦しくなって、そう言うのが精いっぱいだった。顔が恥ずかしさで爆発する前に、この場から離れようとダッシュを仕掛けた瞬間だった。 「おい、待て!」  菊江が間近に聞いた初めての彼の声だった。グランドで聞くよりも、低くて透き通った声だと感じた。 「今読むからそこで待ってな。」  菊江の想定外の展開だった。手紙を渡した恥ずかしさで、その場に居ても立ってもいられないのに、今目の前でその手紙を読むなんて。しかし、菊江は泰佑の声に抗えず、動くことができない。やがて泰佑が手紙を読み終わると、あらためて菊江を見つめた。まさに『足の先から頭のてっぺんまで』という表現がぴったりの眺めようだ。そして、ようやく彼の口から言葉が出た。 「小川菊江っていうのか…。いいよ。」 「えっ?」 「今週の土曜なら空いている。どこにする?」  菊江は、手紙に、一度映画でも一緒に、と書いたことを思い出した。 「…渋谷のTOHOシネマではいかがでしょうか?」 「ああわかった。午後1時にそこでな。」  泰佑の後ろ姿を見送りながら、菊江は長年の願いがこんなにあっけなく実現したことに唖然としていた。やがて姿を現したナミとテレサに、ゴールを挙げたサッカー選手よろしく、もみくしゃにされた。  待ち合わせ場所に現れた私服姿の泰佑は、制服姿を見慣れた菊江に少なからぬ衝撃を与えた。こんなに肩幅が広く背も高かったのかと驚かされた。何十年も経ったのち、泰佑のどこに魅力を感じて好きになったのかと聞かれると、この日のこの瞬間を思い出す。泰佑に異性を感じたこの瞬間が、菊江に恋が生まれた記念すべき時となっていた。ではその前までは何だったのかと言うと、恋と呼ぶにはあまりにも脆弱で稚拙な少女の感傷だったような気がする。
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