オキクの復讐

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 実は、今日を迎えるにあたり、菊江は綿密な計画を練っていたのだ。待ち合わせ時間に間に合う上映作品とそれが放映されている映画館を確認し、終わった後のおしゃべりに最適なカフェを選び、楽しみながら歩けるストリートをマップで調べた。我ながら準備は万端だと思っている。現れた泰佑にドキドキしながらも、挨拶と来てくれたお礼をすませ、菊江は言葉を続けた。 「石津先輩。どんな映画が観たいですか?」  泰佑は、返事もせずしばらく菊江を見つめていた。 「あの、映画が嫌だったらとりあえずカフェでも…。」  事件は突然起きた。泰佑がいきなり菊江の手を握り締めたのだ。じっと彼女の瞳の奥を見つめていたと思うと、菊江の腰を引き寄せ周囲の目もはばからず強く抱きしめた。そして菊江の体の中にある何かのエネルギーが、みずからの体に染み渡るのを待つかのようにじっと目を閉じて動かなくなった。  菊江はあまりのことに声も出ない。抱きしめられた体を動かすことさえもできなかった。泰佑の逞しい腕に抱きしめられると、彼の鼓動が自分の肌で直接感じられた。頭が真っ白になった。不思議と嫌悪感はなかったが、それが泰佑を好きと思う気持ちがあるからなのか、あまりにも突然で嫌悪を感じる余裕がなかったのか、後から考えてもはっきりわからない。ようやく体を離した泰佑は、とびきりの笑顔で菊江を見た。  実はそこから先の菊江の記憶が曖昧になる。悲惨な記憶に対する防衛本能なのであろうか。今でも、やめてくれと拒んだと確信している。絶対に、抵抗したはずだと信じている。でもはっきりとした記憶は、なぜか円山町のラブホテルで目覚めるところから始まっているのだ。気付いたら菊江は、乱れたベッドにひとりでいた。しかも裸身にバスローブ一枚だ。薄暗く何とも言えない色の間接照明に染められた室内を見渡して、菊江は枕元に一枚のメモを発見した。 『ごめん。もう会わない。』  小川菊江は声をあげて泣いた。彼女は、高校2年の2月のある日、初めて恋をしたその日に処女を奪われ、残酷にもその日のうちに捨てられたのだ。男と恋とセックスにトラウマを抱え、怨念の女性オキクがその日誕生した。  10年後。 「バレンタインデーの起源は、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した、聖バレンティヌスに由来する記念日であるとされているのよ。」
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