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希久美は、ハンドバックから自分のラブレターを取り出して眺めた。ラブレターに書かれた『菊江』という名前。泰佑の口から出てきた久しぶりに聞く『菊江』の名前。10年前に消えたはずの自分に、今ここで会うことになるとは考えてもいなかった。
「荒木先生。次の患者さんをご案内していいですか?」
新たな感染症の襲来もないのに、小児科では朝から患者さんで溢れていた。診察が終わった前の患者さんの電子カルテを確認しているナミは、モニターから顔も上げず答えた。
「どうぞ。」
看護師がドアを開けるとともに、聞きなれた声で女の子が、ナミの膝にしがみついてきた。
「あら、ユカちゃん。久しぶりー。元気そうだけど、またお熱でも出たの?」
ナミはユカを抱き上げて、額を触った。熱もなさそうだ。やがて石嶋が姿を現したが、ドアのそばで立ち止まっている。雷の夜に石嶋の家でエキサイトした自分が恥ずかしいナミは、彼にまともな挨拶も出来ないでいた。一方石嶋は、一向に自分に声を掛けてくれないナミに焦れて、仕方なく自らナミと対面する診察用のいすに座った。
「あの…。」
「へんね、ユカちゃんお熱もないし…。おなかが痛いのかな?」
おなかを触診するナミに、ユカはくすぐられているかのように、身体をよじって笑う。
「あの…。」
「ユカちゃん、そんなに暴れたら診察できないですよー。」
「ナミ先生。今日の患者は、ユカじゃありません。僕なんですよ。」
思いつめたような声に、ようやくナミが石嶋に目を向けた。
「今日のユカは、自分の付き添いです…。」
ナミはじっと石嶋を見つめた。石嶋はそんな視線に押されて伏し目がちに言葉を続ける。
「先日は、家まで来て頂いてありがとうございました。ちゃんとお礼も言えなくて…。あの日先生に怒られて…、自分ではどうしいいかわからないし…。」
意を決したように石嶋は、姿勢を正し、ナミを正視した。
「ナミ先生、どうか自分達を見捨てないでください。」
石嶋の訴えに、ユカを膝に抱いてしばらく黙っていたナミであったが、やがて口元をゆるませた。
「わたしがいつユカちゃんを見捨てるって言いました?」
「いや、あの時本当に怒っていらしたから…。」
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