オキクの復讐

88/128
前へ
/128ページ
次へ
 次の場所は、東京国立近代美術館だ。泰佑が入場券を希久美に渡すと、希久美は、泰佑の腕を取り足早に歩きはじめる。数ある名作を歩き抜け、ある作品の前に直行する。それはシャガールの『真夏の夜の夢』であった。希久美はその作品の前に陣取ると、じっと動かなくなった。腕を取られた泰佑も並んでしばらく眺めていたが、絵そのものは美しいと思うが、シャガールの幻想世界であるがゆえにその絵の意味がよくわからない。 「オキク。この絵はどんな意味があるの?」 「泰佑は絵の見方を知らないのね。絵はね、理解するんじゃないの、感じるものなのよ。この絵から、何を感じる。」 「鹿なのかな、牛なのかな、とにかく獣の頭を持ったおっさんが友達の結婚式に出席したんだ。そのおっさんの顔が赤いから、きっと披露宴で酒を飲み過ぎたんだろうな。それで酔っぱらって、調子に乗って嫌がる友達の花嫁さんに抱きつき、周りからひんしゅくをかっているってとこかな。」 「あんたの想像力には言葉が出ないわ…。」 「ほめてくれてありがとう。」 「呆れてるのよ!」 「ならオキクは?」 「男と女のちがいよ。みずからの欲望や感情を顔に出せるから男であり、本当の気持ちや欲求を顔に出さず、心に秘めるからこそ女なの。見て、この憂いに満ちた女性の表情を…。」 「やっぱ女って怖いよな…。」 「やっとわかった。女ってのは、心の中で渦巻く本当の想いは顔に出さないものなのよ。恨みなんか特にね…。」 「いてっ、なんで足を蹴るんだよ。」 「恋人ってのは、本当の想いをぶつけられる相手のことを言うのよ。」 「話の流れがよくわかんねえよ。」  希久美は組んだ腕を解かずに、蹴られた足を痛そうに引きずる泰佑を、ギャラリーショップへと連行していった。 「この店、翁庵っていうんだけど、ネギせいろと鴨せいろが抜群なのよ。」  上野駅のそばにあるふるぼけたそばやの暖簾をくぐりながら希久美は言った。 「どうでもいいけど、そばやに入る時まで腕を組んでる必要ないでしょ。ふたり並んで入るには入口が狭すぎだろう。」 「いいから…。とにかく食券買って。」 「おれが出すの?」 「恋人だったら当たり前でしょ。」 「で、何を?」
/128ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加