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「あんた人の話し聞いてる?さっき言ったでしょ。ネギせいろと鴨せいろよ。いつも来ると両方食べたいんだけど、一人じゃなかなか食べられなくてね。今日は嬉しいわ。ふたりだから、恋人らしくシェアして食べましょ。」
手書きの紙の食券を買って、しばらくするとせいろが運ばれてきた。ネギせいろの汁には、縦に切ったねぎと大きなかき揚げ、鴨せいろの汁には、ジューシーな鴨の胸肉が入っていて、どちらの汁も温かい。なかなかのボリュームだ。
「まず、私がネギせいろ。泰佑が鴨ね。」
ふたりはそばにたっぷりと汁をからませ、黙々とそばをすする。
「はい、ここでストップ。こんどは私が鴨ね。」
希久美が泰佑の汁椀を奪って、自分のものと交換した。
「ちょっと待て、ネギとかき揚げがほとんど残ってないじゃないか。」
「あら、そう。」
希久美はそばを口に入れながら平然と答える。
「おれは遠慮して、鴨を結構残したのに…。はっきり言うが、これをシェアとは言わない。日本のそばを食べる日本人でありながら、日本が世界に誇れる良き慣習である奥ゆかしさを、お前はいったいどこへ捨ててきてしまったんだ。」
「珍しく長セリフはくかと思えば、意味のないことをウダウダと…。ぐずぐずしてると残ったネギも食べちゃうわよ。」
「これが恋人らしくといえるのか?」
「上手いモノの前では、恋人もクソもないの。黙って食べなさい。」
「食べ物を前にして、汚ねえな。」
「そんなに言うなら、食べさせてあげましょうか。はい、あーん…。」
「もういいよ。自分で食べるよ。」
希久美は泰佑に車を歩道に寄せて止めるように指示をした。国道一号線。慶應義塾大学東門前である。希久美は、車から面倒がる泰佑を引きずり出す。
「この時間、ここから見る東京タワーが一番素敵なのよ。」
見上げてみると、東京タワーが青い空にそびえ立ち、手を伸ばせば掴めそうなほど近く感じた。見えている角度やその質感があまりにも空に溶け込んでいるので、人口の建築物と言うよりは、1千年も昔からそこにあった自然物のような気さえしてくる。
「だいたい、今どき東京スカイツリーじゃなくて、なんで東京タワーなんだよ?」
希久美は、泰佑の腕につかまり甘えるようにささやいた。
「あたし慶應ガールだって知ってた?かつては三田キャンパスのクイーンと呼ばれていたあなたの恋人は、ここから幾度も東京タワーを見上げていたのよ。」
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