アキオ・トライシクル

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 キャンバスを抱えて江ノ電のフォームに立ち、来た電車に乗り込もうとしたが、朝のラッシュ時には、さすがにキャンバスを持って入る隙間もないような混み方だ。一本やり過ごし、そしてまた一本。やがてラッシュ時が過ぎて、やっと客席にも空間が見え始めた頃、好美はこれなら乗り込めると、キャンバスを小脇に抱え、客車のドアの前に立った。ドアが開き、いざ乗り込もうとした時ドアの付近に居るOLと眼があった。その眼が、『そんなものを持って乗る気なの。』と言っているような気がした。好美が躊躇していると、やがてドアが閉じてしまった。気を取り直して次の電車を待つ好美。次の電車では、開いたドアの先の中年のサラリーマンと眼があった。また躊躇する好美。そんなことを何度も繰り返して、彼女はついに電車に乗り込むことを諦め、駅を出ると路線に沿って歩きはじめた。  歩きながら、好美は自分自身に、こんなことはいつものことだから、別にどうってことないと言い聞かせた。自己嫌悪は禁物だ。自己嫌悪になった夜は、必ず不吉なことが起きる。ただでさえ最近自分でも意味不明な行動が多いのに驚いているのだ。今まで行ったこともない江ノ島の街をさまよい歩いたり、急に海の見えるところに住みたくなったり…。クレームの電話なんかしたのも始めてのことだ。自分らしくない。好美はその内省的な性格ゆえに、数多くの不安を抱えていたが、今感じているこの不安は初めての味がした。不安ではあるが不快ではないのだ。  片瀬西浜の砂辺に腰かけた彰夫は、打ち寄せる波のしぶきが朝日に光るのを眺めていた。今朝も浅い睡眠で早くから目が覚めて、ベッドに居られず海岸へ出ていたのだ。日の出に水平線を眺めるといつも感じるのだが、日が高い日中に比べて、日が低い日の入りとか、日の出とかの時間の方が水平線を高く感じる。不変とは言えないまでも、毎日同じ高さの水平線のはずなのに、それを眺める人間の感性なんていい加減なものだ。 「あのう…。」  彰夫の瞑想が、女性の声で中断された。もっとも、瞑想と言えるほど美しく哲学的な想いにひたっていたわけではないが。 「はい?」 「江の島ハウジングの方ですよね?」  彰夫が声の主を見上げた。好美だった。彼女が紙のコーヒーカップを両手で持って、立っていた。 「はい、そうです。あなたはたしか…、松風マンションの大塚さん。」
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