アキオ・トライシクル

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 好美のグレーな瞳に、警戒の光が走った。しまった、話題を誤ったか…。 「いや、賃貸契約した時に、書いて頂いていたから…。」 「はい、来年卒業です。」  警戒を解いて応えてくれた好美に、彰夫はほっとした。 「卒業された後は、どんな職に就かれるんですか?やっぱり画家かデザイナーですか?」 「いえ、たぶん美術の先生か、うまくいってどこかの美術館のキューレターです。」 「そうですか。僕らの仕事に比べれば、とても繊細で難しそうなお仕事ですよね。」 「彰夫さんも…。」  いきなり自分の名前を呼ばれて、心臓がドキリと鳴った。なぜ自分の名を知っている? 「この前、難しいご本を読んでいらしたでしょ。『夜と霧』。確か著者のヴィクトール・フランクルは、オーストリアの精神科医ですよね。」 「ええ、ところでなんでご存じなんですか?」 「わたしも少し心理学に興味があって…。」  彰夫の質問の意味は違っていた。なぜ自分の名前を知っているのかを聞きたかったのだが。 「彰夫さんは心理学をご勉強されているのですか?」  平然と話題を進める好美に、彰夫はこれ以上追及することを諦めた。 「ええ、大学で心理学を専攻していました。」 「不動産屋さんの心理学者ですか。」 「いや宅建資格もまだないから不動産屋でもないし、真面目に大学で講義を聞いていたわけでもないからたいした心理学の知識もない。ただのニートなオタクですよ。」  好美が初めて満面の笑みを浮かべた。その笑みを見た瞬間、彰夫は自分の胸に何かが刺さったような気がした。 「飲み終わりました?カップを持って帰ります。浜のごみにしたくないから…。」  好美はそう言いながら立ちあがった。彰夫は、肩にとまった可憐な小鳥を、逃がしたくはなかったが、しつこい男に見られたくもないので、しぶしぶ好美にカップを手渡す。 「ご馳走様でした。」
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