アキオ・トライシクル

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 好美はまだ顔を赤らめたまま、軽く会釈をして足早に立ち去っていった。いつまでも好美の後ろ姿を見送っていた彰夫だったが、やがてその姿が見えなくなると、諦めてまた流木に腰掛ける。ふと見ると、流木の上に折りたたんだチラシが置いてあった。それは、来月から女子美のアートミュージアムで開催される作品展の案内であった。彰夫は出品者の中に大塚好美の名前を発見した。コーヒーを持って彰夫に声をかけることに、自分の持つすべての勇気を使い果たした好美は、さらに彼を作品展に誘う勇気など残っていなかったのだろう。彰夫は目を細めて、あらためて松風マンションのベランダを眺めた。  店舗のシャッターを下ろして、店を閉めようとしていた彰夫の携帯が鳴った。知らない番号が表示されている。 「もしもし…。」 「ああ、彰夫?わたしよ。テルミ。」  えっ、あの酔っぱらい女。彰夫はあの女がなんで自分の携帯番号を知っているのかと愕然とした。警戒して黙っている彰夫に構わず、テルミは言葉を続けた。 「あたしさ、藤沢のゼロ・ガールっていうキャバクラで働いてんだけど、今夜来て指名してくんない。」 「なんで…。」 「今月ポイント稼げなくてさ。協力してよ。」 「だから、なんで俺が…。」 「いい、閉店1時間前ごろに必ず来るのよ。来なかったら、隣の女のところに乗り込むから。じゃあね。」  彰夫の返事も聞かずテルミは一方的に電話を切った。彰夫は呆然として携帯を見つめた。  好美は、家を出られずにずっと薄暗い部屋で布団を被り、浅い睡眠と覚醒の間を行き来していた。今日一日、まったく気分が落ち込んでいる。とりあえず大学へ行ったものの、講義も頭に入らなかったし、誰とも喋りたくなかったのですぐ帰ってきてしまった。今も身体がだるくて、心臓病になったように胸が苦しい。この不調の理由を好美はわかっていた。今朝、浜で見つけた彰夫へ、衝動的にコーヒーを持って行ってしまったせいだ。しかも図々しく横に座り、なんか変なことを口走りもした。彰夫に軽い女だと思われたかもしれない。なんでそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。とてつもない自己嫌悪が、好美を襲っていた。こんな日はとにかく布団を被って、時が自己嫌悪を薄めてくれるのを待つしかなかった。 「彰夫君よ。君から誘ってくれるとは意外だったよ。この義兄にやっと心を開いてくれるようになったのか…。」
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