アキオ・トライシクル

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 彰夫は混乱した頭の中をなんとか鎮めようと深呼吸した。しかしやがて、テルミの部屋に居てはそんなことが不可能であることに気付く。こんなところに一秒だって長くいるべきではない。彰夫は、床に散らばる自分の服を急いで身につけながら、あらためて部屋の様子を眺めた。あのテルミにしては、小奇麗に整理された女性らしい部屋である。部屋の片隅に、キャンバスと画材が置いてあった。酔いがさめた時には、趣味で絵も描くのか。ちょっと意外な印象を持って、もっと部屋を観察したい気もしたが、こんなところに長居は無用だと考えなおす。靴をつっかけて、慌てて部屋を出た。エレベーターフロアの呼び出しボタンを何度も叩いて、エレベータを呼んだが、こんなにゆっくりとしか動けないものなのかと焦れた。 「あら…、おはようございます。」  1階に到着した彰夫に挨拶した女性がいた。好美であった。今この瞬間でテルミの次に会いたくなかった女性だ。彼女は彰夫との思わぬ再会に、顔を赤らめている。 「彰夫さん、朝からお仕事ですか?」  好美は、朝起きたての寝癖を隠すために、髪を後ろにまとめていた。その髪型も新鮮だった。あいかわらずの彼女の純朴で美しい素顔を見て、彰夫は昨夜の出来事への後悔で胸が焦げる思いがした。そのせいか、彼女の問いに答える声も、今にも消え入りそうである。 「ええ、まあ…。」 「私、ゆうべ遅かったものですから、寝坊しちゃって…。コンビニで朝食を買ってきたんです。」  彰夫が聞いてもいないのに、明るい笑顔で話す好美の手には、確かにコンビニの袋があった。今の俺には、彼女の笑顔を受ける資格が無い。彰夫がそんなことに苦悩している事など知るよしもない好美は、気持ちいい朝にふさわしい、とびきりの笑顔と透きとおった声で彼に言った。 「それでは、頑張ってください。」 「ありがとうございます。好美さんも…。」  すれ違う好美を見て彰夫は言葉を失った。その左耳に印象的なホクロがあったのだ。  横浜市立大学の金沢八景キャンパス。彰夫がそこにやって来るのも何年振りだろう。大学時代は人間科学コースで心理学を専攻して毎日ここに通っていた。今彼は久しぶりに訪れた教授室で、学生時代教えを乞うていた人物を待っている。
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