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彰夫はカフェでランチを取りながらも、持っている書物から眼を離さない。あの夜以来、テルミからの呼び出しの電話もなく、朝の西浜の散歩に、好美も姿を現すことが無かった。『関わらない方がいい。』と結論を出したものの、彼の家の書棚にはいつの間にか『解離性同一性障害』に関する書籍で埋まっていた。家だけではなく、カフェでランチを食べる時も、それらの本を手放さなかったのだ。
女としての好美とテルミは、彰夫にとっては依然恋愛と欲望の記憶であり続けた。関わりを絶つと頭では割り切っていても、心と身体がふたりを忘れてはいなかった。だからと言って、彼女たちにどう対応したらいいかがまったくわからない。自分のこの平穏な日々を維持することを考えれば、ふたりは自分にとって最も危険な存在であることは間違いない。したがって、彰夫からすすんで彼女たちに連絡するような勇気はなかった。
一方、人間としての好美とテルミは、心理学を学んだ彰夫にとって興味がつきない対象だ。
『基本人格はどっちなんだ。好美?テルミ? 社会的実体があるのは好美だから、彼女が基本人格か…。そうだ、あの朝も好美は自分とテルミにあった出来事をまるで知らなかった。…ということは、交代人格であるテルミは、好美と自分との出来事は覚えているのか。交代人格に別の名前が存在するなんて症例、他にもあるのか…。』
彰夫の携帯が鳴った。着信を見ると、『バッドガール(Bad Girl)』の表示が出ている。テルミに呼び出された時、身の安全のため登録した番号だった。彰夫は以前のような要求があったら、断固拒否してやろうと心を強くして、語気を荒めて電話に出た。
「もしもし…。」
彰夫の勢いに押されたのか、電話をかけてきたはずのテルミはいっこうに返事をしない。
「返事をしないなら切るぞ。」
「あの…。」
電話から聞こえてきた遠慮がちな声は、透き通っていた。
「えっ…大塚好美さんですか?」
「はい。仕事中でしたか?ご迷惑をかけてすみません…。また、掛け直します…。」
「いえっ、いいんです。大丈夫ですよ。切らないでください。」
彰夫は慌てて好美を引き留めた。
「どうされました?またマンションで不都合でもありましたか。」
「いえ、実は…。」
その後の言葉がなかなか出てこない。彰夫は、今度は辛抱強く好美の言葉を待った。
「女子美のアートミュージアムで、作品展があるんですが…。」
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