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「ええ、知っていますよ。この前の朝コーヒーを頂いた時に、大塚さん、案内チラシを忘れて行かれたでしょ。」
「ああ、そうでしたっけ…。」
またその後の言葉が出てこない。次の言葉を待つ沈黙の時が、彰夫のこころに固く閉じていた種のようなものを発芽させていった。過去に何があったか知らないが、好美は人格を切り離してまで忘れたいほどの深い傷を心に負った。そのストレスがますます彼女を内向的にし、テルミを攻撃的にしている。今にも消え入りそうな好美。電話の向こうで、何かを必死に伝えようとしているこの基本人格の力になりたい。彼女を精神科の病院などに通わせる苦痛を与えないで、普通の生活の中で彼女の人格の統合を手助けしたい。まさにそれは、杉浦教授がタブーとしていた事であったが、電話から聞こえる好美の息づかいを耳にして、それを思いとどまる冷静さをすっかり失ってしまったのだ。
「作品展にお伺いしてもいいですか?ご迷惑でしょうか?」
「えっ…いえ。ぜひお出でください。」
こころなしか好美の声に明るさと張りが増したようだった。
「お出でになる日を知らせて頂ければ、ご案内します…。」
「ありがとうございます。大塚さんの作品が見られるのを楽しみにしていますよ。」
「そんな…たいした作品でもないので、恥ずかしいです…。それから、あの…。」
「なんですか?」
「今度お会いする時は、もう私には敬語を使わないでください。それに私のことも好美って呼んでいただけると嬉しいのですが…。」
彰夫はそう言う彼女の真意をしばらく考えた。自分と、より親密になることを望んでいるのだろうか。
「そう言って下さるなら、喜んで…。」
彰夫は、作品展に行く日時を約束して電話を切った。
彼女の手助けをするためには、まず彼女を理解する必要がある。描かれた絵のなかに、その作者の心が現れるというから、作品を通じてまずは彼女を丁寧に観察しよう。どうするかはそれから考えたらいい。すると、彰夫の携帯がまた鳴った。先程と同じ着信表示だった。
「なんですか、好美さん。」
「好美って誰?」
彰夫の心臓が飛び出すほど驚いた。今度の相手はテルミだった。
「好美って、彰夫が大切にしているあの女なの?」
「テルミには関係ないだろ。何の用だ。」
「彰夫、あんた全然店に顔出さないわね。」
「店に行く理由が見当たらない。」
「あなたが、あの夜あんなに求めた女がいるのに?」
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