アキオ・トライシクル

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 今回はテーマを持って好美に描いてもらったわけではないので、その解読は相当難しいはずだ。はたして好美の作品を見つけた彰夫は、作品の前で立ちすくんでしまった。解読の助けになる具象的なものはなにも描かれていない。ポロック、デ・クーニング、デュビュッフェ。それらの作家を彷彿とさせるような抽象的な絵なのだ。その色と筆致は情熱的で、挑発的で、抒情的で、内省的で、外交的で…。まったくわからん。大学でもっと真剣に勉強しておけばよかった。呆然と眺めていると、やがてその絵全体から発する美しさが、無条件に彰夫の眼底を愛撫しはじめた。鑑賞者になってはいかん。観察者の眼を取り戻さなければ。彰夫は頭を振って気持ちを入れ替えると、家で解析するために、好美の絵がもっている特徴的な部分を片っ端からメモした。 「あの…。」  彰夫は背後から声を掛けられて、メモ作業の手を止めた。振り返ると、そこに好美がいた。 「もういらしてたんですね。声をかけて頂ければよかったのに…。」  そう言いながらほんのり赤らめる好美の顔を見ると、今日はうっすらお化粧をしているようだった。際立つ鼻筋と濡れた唇。愛らしく跳ねたまつ毛は、こんなにも長かったことに今まで気付かなかった。服の雰囲気も、過去会った時とちがった印象を受ける。今日のために、お化粧やおしゃれをして来たのか。 「すみません。早く好美さんの作品を見たかったもので…。」 「画商でもないのに、必死にメモしながら絵を観賞する人を始めてみました。」 「ああ、これは…。」  彰夫はメモを慌ててポケットにしまった。 「何をメモしていたんですか?私の作品の批評?」 「いや…、絵のことじゃないんです。急に晩飯のレシピを思いついちゃって…。」  好美は探るような眼で彰夫を見つめた。嘘を見透かされる狼狽というよりは、長く好美に見つめられることへの狼狽で、彰夫の顔が上気した。彰夫の口が勝手に動きだした。 「僕は美術の知識など無いですから、批評なんてとんでもないです。何を描こうとしているのか、何が描かれているかなんて、まったく理解できません。ただ…、こんな自分でもひとつだけはっきりと言えることがあります。好美さんの作品は無条件に美しいと思いました。この絵を見て、あらためて好美さんを好きになった理由がわかりました。」
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