アキオ・トライシクル

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 しまった!心の奥底に鍵を掛けてしまっておいたはずの気持ちが、思わず口からこぼれ出た。彰夫はおそるおそる好美の様子を伺った。見ると、好美は口に手をあててうつむいたまま動かない。そして、わずかに震え始めた。目に涙が溢れていた。 「ごめんなさい…。好美さん、許して下さい。変なこと口走っちゃって…。」  それでも、好美の涙は止まらない。内向的な好美の性質を考えると、たいしたつきあいもないのに突然コクルなんて、明らかに失態だった。 「ごめんなさい。こんなことを突然言われることが、好美さんが嫌いなのは良くわかっていたつもりなのに。なんと謝ったらいいか…。」  彰夫は自らの軽率さを後悔して視線を床に落とした。 「本当にごめんなさい。気分を害したでしょう。出直してきます。」  頭を下げて、アートミュージアムを立ち去ろうした彰夫は、自分のジャケットの袖が引かれるのを感じた。 「約束したでしょう。ご案内はまだ終わってません。」  振り返って見ると、好美は涙の代わりに、かよわい微笑みを顔に浮かべていた。  自分の失言が許されたのかと安心した彰夫は、好美について作品展を見て回った。失言に懲りた彰夫は、今度は下手なことをしゃべらずに、良い聞き役になろうと心掛けた。好美は静かに、しかし雄弁に解説してくれた。そして、彼女の案内は作品展だけでなく美術大学のあちこちの施設まで及んだ。歩いているうちに、自然と好美の手が彰夫の手を求めてきた。大学の構内を、手をつないで歩いているうちに、彰夫は周りの学生たちが、驚きと好奇の目でふたりを見ている事に気づいた。そして、学生ラウンジで仲良くコーヒーを飲んでいる時に、ふたりに集まる視線の先を探り、彰夫はようやく理解することができた。それは彰夫に対するものではなく、好美が男と楽しく時をすごしている事への驚きと関心なのだ。  彰夫が自宅でメモと心理学書を見比べながら、好美の絵の解釈に奮闘していると、携帯が鳴った。着信表示を見て警戒する。好美なのか、テルミなのか。 「もしもし…。」  返事が無かった。もう一度呼びかけて、返事を待った。返事が無い代わりに、激しい息遣いと嘔吐で喉が鳴る音がする。彰夫は電話を切ると、自宅を飛び出して入った。
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