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松風マンションの彼女の部屋には鍵が掛ってなかった。部屋に飛び込んでみると、汚物にまみれて、彼女が床の上をのたうちまわっている。好美なのか、テルミなのか。彰夫は彼女の肩に腕をまわして半身を起した。息も絶え絶えに彼女が彰夫に訴えてきた。
「胃が、死にそうに痛い…。」
瞳が黒かった。テルミだ。
「テルミ、何があったんだ?」
テルミは身もだえするだけで答えない。あたりを見回すと、空の日本酒の一升瓶が転がっていた。急性アルコール中毒? 今は嘔吐を伴う泥酔期で、このまま血中アルコール濃度が上昇し続けるようなら昏睡期に入り、呼吸機能や心拍機能の停止に至るかもしれない。彰夫は、即座に救急車を呼んだ。そして、テルミを嘔吐物の窒息から守るために、体と頭を横向きにして寝かせた。いわゆる回復体位と呼ばれる体位だ。
「なんでこんなに飲んだんだ。」
叫ぶ彰夫に、テルミが悶えながら、絞るような声でうわごとを言った。
「もともと…男に電話して誘うなんて…出来る女じゃなかったのに…。」
そこまで言うと、テルミの意識が落ちた。いよいよ昏睡期に入ったのだ。彰夫はテルミを抱え呼吸と心拍を頻繁にチェックした。救急車はなにぐずぐずしているんだ。彰夫は床を拳で叩きながら叫んだ。しばらくすると、かすかであるが救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
彰夫は長い時間、病室のベッドに付き添っていた。テルミが、今は血中アルコール濃度も低下し、深い眠りについている。生体モニターから発せられる規則的な電子音が、テルミの無事を知らせているようで嬉しかった。
彰夫は、さっきからずっとテルミの寝顔を見つめている。いや人格が現れていない寝顔は、テルミなのか好美なのかわからなくなっていた。よくよくみればひとつの顔だ。しかし、同じ人間の顔なのに、人格が現れると、こんなにも顔と印象が変わるのかと、あらためて驚かざるを得ない。ふたりは肌の色も眼の色も違って見える。いや、そんなディテールはどうでもいい。絶対的な存在が別個のものとしか思えない。昨夜は、明らかにテルミが泥酔していた。もともと良く飲むテルミだが、昨夜は異常な速さで、大量の酒を飲んだようようだ。それは、何かのストレスを発散させるとか、忘れるとかの為ではないように思える。
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