アキオ・トライシクル

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 彰夫はその言葉に呆然として、返事を返すことができなかった。好美は何事もなかったように、キッチンで朝食を準備している。昨日と変わらぬ朝なのか?そう言えば、ゆうべは部屋が暗くてベッドに入ってきた好美の眼の色を確認できなかった。 『やりやがったな、テルミのやつ…。』  あんなに上手く好美を真似るなんて…。結局テルミは好美のすべてを知っているということなのだろうか。 「オイちゃん、このあたりでいいわ。」 「折角だから家の前まで送るよ。」  今夜も克彦は閉店までキャバクラで遊び続け、今日の送りオオカミの獲物は、テルミだった。しかしながらこのオオカミは、過去に百人近くキャバ嬢を送っているのだが、今まで実際に目的を果たしたことは一度もない。信子との家庭を壊したくない克彦は、常に『あわよくば』のレベルでキャバ嬢を送っており、『ひょっとしたら』の楽しさだけで、ある意味十分であったのだ。しかし、テルミには違った。彼女の群を抜いた容姿の美しさもさることながら、その気まぐれ度やフェロモン濃度がまさに愛人として理想の女性だったのだ。信子との信頼関係に、多少の危険を犯しても、より親密になりたい女性だった。  彰夫と店に来たあの夜以来、克彦はテルミを目指して通い続けた。テルミは気まぐれ出勤で、不定期に週に1、2回しか出勤してこないので、当然克彦が店に行っても、彼女が居ないことが多い。そのたびごとにマネージャにクレームを言って暴れる克彦だったが、それでも店で会えた時は、そんなことも忘れてテルミに貢ぎ続けた。そして閉店まで居座ると、必ず送っていくとテルミに持ちかける。断られ、断られ続けたある日、唐突にテルミの方から送ってくれとせがまれた。克彦の熱意に負けたと言うよりは、別の事情があるようだったが、克彦はそんなことはまったく気にならなかった。  キャバ嬢とのつき合いに慣れている克彦は、送りのルールを熟知していた。初めての送りとなる今夜、彼女の私生活事情もわからないのに、いきなり彼女の部屋に押し入ろうしても無理なことはよくわかっていた。今夜の目指すべき成果点は、彼女の住んでいるマンションと部屋を特定することで十分だ。そこをヒントとして、ゆっくり彼女のプライベートを探ればいい。 「オイちゃん、ホントにここでいいから。」 「そうか、じゃぁ、気をつけて帰れよ。」
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