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彰夫が接客カウンターの少女を見た。少女はうつむいて、陶器の置物のように黙って座っていた。
「私は、及川と言います。どうぞご希望をお聞かせください。」
彰夫はそう言いながら、物件情報のファイルを持って接客カウンターに座った。
「あの…。」
初めて聞く少女の声は、か細く、しかし透き通っていた。
「先程お伺いした時に、ずっと本を読んでいらしたでしょう。」
「ああ、すみません。仕事中に…。店番が暇だったもので…。」
「なんの本ですか?」
彰夫は消え入りそうな声で質問する少女を改めて見つめた。キューティクルの効いた輝く長い髪。その髪に隠れて顔は部分的にしか見えないが、それでもその顔立ちの可憐なことは容易に想像できた。極端に露出を控えた肌は白く輝き、ほとんど化粧はしていないようだ。すべてに大きめの服は、彼女の女としての体型を見事に消し去っている。物件探しとは関係ない要望ではあるが、少女に関心を持った彰夫は、自分のデスクに戻り本を取ってきた。
「これです。」
『夜と霧』心理学者ヴィクトール・フランクルによって、1946年に出版された名著だ。
「ずいぶん難しい本をお読みになるんですね。」
「ええ、まあ…。」
もともと彰夫は、大学で心理学を専攻していた。消去法という非建設的な選択で専攻を決めたのだが、彼は何事も情熱を持って決めるとういうことができない。『なにをやりたい』というより、『やらなければならないとすればなにを』の感覚で決めるのだ。それでも大学ではそれなりの成績を納めたので、教授から大学院への進学を勧められていた。しかし今彼がここに居るのは、やはり彼が得意とする非建設的な選択がなされたからである。
いつまでも本の表紙を見つめる少女に、彰夫も多少焦れていた。
「それで、ご希望は…。」
少女が、視線を本から彰夫に移した。色素が足りないのか目の色がグレーを帯びていた。
「海が好きなんです。海が見える部屋は無いでしょうか?」
「彰夫くん。ちょっとこっちへお出でよ。」
建売工事の現場から戻った彰夫に、克彦が小さく手招きした。その手に、タウン情報誌を持っている。
「藤沢にあたらしく出来たキャバクラが、えらく評判がいいんだ。」
克彦が開いた情報誌を彰夫に指し示す。そこには、派手に着飾ったキャバクラ嬢が数人、扇情的なドレスを身につけて笑顔で並んでいた。
「今度行ってみないか?」
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