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「また、姉貴に怒られますよ。」
「自分の楽しみで誘っているんじゃないよ。女に縁がない義弟のために、女性と触れ合うきっかけづくりに協力をするんだから、問題ないでしょう。」
「そこで遊んだ領収書を持ってきても、交際費では落とさないからね。」
知らぬうちに、信子がふたりの背後に立っていた。
「かっちゃん、彰夫を変なところに連れて行かないでよ。」
「いや、女性と出会う機会を作るのは大切でしょう…。」
「それなら、キャバ嬢の写真じゃなくて、見合い写真でも持ってきなさいよ。」
信子はあごで、克彦の手にする情報誌を指し示す。克彦は慌てて情報誌を閉じた。
「彰夫、あなたの留守中に、松風マンションの大塚好美さんって方から電話があったわよ。」
あの時の少女か。変わった娘だった。彰夫は、松風マンションへ案内した時のことを思い出す。部屋に入ると、とにかく海の見えるベランダへ直行し、家賃も聞かず即決していたっけ。デスクに戻った彰夫は、会社の電話を使わずに、自分の携帯で好美に電話を入れた。そのことが、彼の『いつも通りの世界』から逸脱していくきっかけになるとは、その時は想像もできなかった。
「もしもし、江の島ハウジングの及川です。」
「ああ…。」
彰夫の携帯に聞き覚えのある透きとおった声が応えてきた。
「お電話を頂いたみたいで…。お部屋の件で、何か不都合がありましたか?」
「いえ…、海も見えるし、部屋も気に入っているんですけど…。」
「どうしました?」
「この4階のフロアで、深夜に帰宅される方がいて…。その時騒がれるので目が覚めてしまって…。」
彰夫は、好美が初めて店に来た時を思い出した。存在感が希薄で、対人恐怖症とも思える彼女の物腰を考えると、相手に直接文句を言うなど到底出来ないだろう。
「わかりました。その方に僕が注意しましょう。この手の注意は、騒いでいるその場でないと効果が無いので、だいたいの時間を教えてもらえますか?マンションの前で待機しますから。」
「でも…毎日ではないから…。」
「かまわないですよ。空振りの夜があったって…。」
申し訳ないと何度も謝る好美からようやく時間を聞き出すと、彰夫は電話を切った。
「彰夫。そこまであんたがやる必要あるの?」
電話に聞き耳を立てていた信子が心配そうに言った。
「当たり前の顧客サービスだろ…。」
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