アキオ・トライシクル

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 彰夫はそう言いながらも、別な顧客だったら同じように対応していたかどうかは自信が持てない。信子の心配そうな顔に、居心地が悪くなった彰夫は資料室へ逃げ込んだ。一応好美と同じフロアの住人をチェックしておこう。相手がやくざだったらおおごとだ。しかし、ひと通り賃貸契約書を見ても、そんなことをするような人物が見当たらない。改めて好美の借主ファイルを見なおした。大塚好美。22歳。実家は奈良県。女子美術大学 美術学科 美術教育専攻。相模原キャンパスに通う美大生だった。  松風マンションに待機した最初の晩は、空振りだった。彰夫は車の中から月を見上げて過ごした。その夜の月は満月である。月は夜空に丸々とその存在を示していたが、目に見えない反対側は、闇と零下の世界のはずだ。日にちが経てばやがて、月はその裏にひそむ黒を、表の白く輝く円の中に受け入れて行く。月の満ち欠けは、同じ月が太陽に当たる位置と見る位置の加減でおきる現象だとは知りながらも、彰夫は毎夜、違った月が夜空を渡っているような気がしてならなかった。  車の中でうたた寝をしていた彰夫が、けたたましい女性の声で起こされたのは、待機して3回目の夜だった。目を覚まして見ると、車で送ってきた男と送られた女がマンションの前でモメテいたのだ。 「ここまで来たんだから、お茶の一杯ぐらいいいだろうが。」 「なんであんたを部屋に入れなきゃなんないの?」  女は大声で、呂律のまわらない口で相手を罵倒している。かなり酔っているようだ。彰夫は時計を見た。好美が言っていた時間に適合する。彼女が言っていた騒音は、彼ら達なのだろうか。彰夫は、車から出ると、意図的に音を立ててドアを閉めた。その音に驚いて、彰夫の存在を認めた男は、諦めたように車のエンジンをスタートさせて走り去っていく。 「このスケベ野郎め、さっさと帰れ!キャハハハハ!」  走り去る車の背に投げつけるように、女は大声で悪態を吐き続けた。 「あのう、すみませんが今何時だかご存知ですか?」 「なによ、あんた時計持ってないの?」  彰夫の問いかけで、振り返った女を見て、彰夫の血が逆流した。夜明けの片瀬西浜で、彰夫にビールをかけた女だった。彰夫の語気が自然と荒くなってくる。 「時間を聞いているのではありません。」 「あんた誰?」 「わたしは、このマンションの管理会社のものです。」  彰夫は、女に名刺を渡した。
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