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先代と出会ったのはそんな折だった。
ヤクザの組長だなどと知らずにその懐から何時ものように財布を抜き取り素知らぬ顔で通り過ぎようとした鷺沼の腕を後ろについていた若い男が掴んだのだ。
「このガキッ!今盗ったもん出しやが れ!」
逃げようと思った鷺沼は咄嗟にその男の身を地面に叩きつけていた。
数年武術を見とり稽古のみで身に着けた条件反射のようなものだった。
まずい。頭で思った時にはもう遅く、鷺沼を囲うようにして幾人もの男が立ち塞がっていた。
情けないことに、この時初めて盗みを働いた相手が裏の世界の人間であったことに気付いたのだった。
「まあ、待て」
胸倉を掴み上げられ、まさに殴られる寸前だった鷺沼の肩に手が置かれた。静かなその声に周りの男たちは鷺沼を解放する。
目を向ければニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべた男の顔が鷺沼の目の前にあった。
「目付きの悪りぃガキだな、お前名前は」
男の言葉に警戒しつつ口を開く。
「…鷺沼」
「馬鹿、人に名前聞かれた時はフルネームで答えるもんだ、下の名前は」
「ねぇよ」
「んん?」
怪訝そうな顔の男から一歩後ずさり唾を地面に吐き捨てる。
どんなに立場が上の人間であっても下に見られては生きていかれない。
「名前はねぇ。呼ばれた事がない」
鷺沼は母の姓だ。
それも、家に来た客が母をそう呼んだ事で知った。母親は鷺沼を「あんた」だとか「ねぇ」だとかしか呼ばなかったし、鷺沼もそれで困ったことはなかった。
「そうか。俺はな、八幡厳一だ。名は親父が付けた、厳しくも真っ直ぐな人間になるように、とな」
だからなんだ。とは言わなかったが表情に出ていたのだろう、八幡は図体に似合った大声で笑い出した。
今度こそ鷺沼は不愉快そうな表情を浮かべた。
「名前ってのを馬鹿にしちゃならねぇ。それは固有名詞であり己が己である証だ。で、子は親の付けた名に恥じねぇように生きる義務がある」
11の鷺沼には八幡の言葉は禅問答のように響き、理解は追い付かなかった。
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