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いつも手と顔を洗うだけで、シャワーは朝なのに…。真奈美は普段と違った行動パターンをとる秋良を不思議に感じたが、こんな状況だから気分転換をしたいのだろうと考えた。きっと問題はまだ解決していないのだ。
濡れた髪のまま食卓につく秋良。少しウエーブのある前髪が瞳にかかる。髪の毛の隙間から見える瞳が、いつにもまして緑を濃くしているように感じる。本当にいい男だ。真奈美はしばし箸をくわえたまま秋良を眺めていた。
「俺の顔に何かついているか?…。」
真奈美は慌てて箸を動かして、自分の食事を再開した。
「おい真奈美。水をくれ。」
真奈美は、ミネラルウオーターを取りに行く。
「おい真奈美。味噌汁が冷めた。温め直してくれ。」
「おい真奈美。この箸気に入らない。取り替えてくれ。」
真奈美が座れば注文を出し、また座ればモノを言いつける。半分いじめのように用事を言いつける秋良に真奈美もたまらず言い返す。
「何よ、上手くいかなかったから、私にあたってるの?」
「いや…。」
「だったら何でゆっくり食べさせてくれないのよ。」
「鈴がね…鈴の音が聞きたいんだ。」
「どうして?」
「聞けるのも今夜が最後かと思って…。」
失敗したから、当分代理母としての自分は必要なくなったのだ。この家から出されるのだと真奈美は理解した。今まで浮かれていた気持の半分が消し飛ぶ。また突き放された気分になった。しかし、妻でも愛人でもない自分がここで駄々をこねても仕方がない。秋良との共同生活が終わるのは辛かったが、それでブルーになった自分を、彼に気付かれないようにしなければ。
「だったらたっぷり聞かせてあげるから…。」
そう言うと真奈美はキッチンの少し広いフロアに立った。腰に手を当ててポーズを作る。秋良は何が始まるのかと彼女に注目した。
「オッパ、カンナムスタイル! エーオ!」
真奈美はいきなり江南スタイルを歌いながら踊り出した。これにはさすがの秋良も笑い出す。
「どう?満足した。」
ひと通り踊り終えた真奈美は、ハアハア言いながら食卓に戻る。
「ああ、満足だ。」
真奈美は額に浮かぶ汗を拭って、水をごくっと飲み干した。
「仕事のこと聞いてもいい?」
「ああ」
「今日は延期になったけど、私はどうなるの?」
秋良の食事をする手が止まった。
「延期にはできないんだ。」
「どういうこと?」
「この仕事を延期するわけにはいかないんだよ。」
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