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稲葉はこの場面が人生最初で最後の舞台であると自覚していた。稲葉に残されたゴッドボールの球数や年齢を考えると、この後再び日本シリーズでマウンドに上がるチャンスがあるわけがなかった。たとえ来シーズン、チームが日本シリーズに出たとしても、稲葉がその時チームのマウンドに残っている確率はほとんどない。それだけにこの舞台では絶対に負けられなかったし、ましてやこの舞台を他の人間に譲るなど考えも及ばなかった。それは島原にとっても同じに違いない。
この勝負、もし残った2球を使い切った後に島原にゴッドスイングを使われたらと考えると、稲葉はマウンドで膝が震えた。2アウトからの逆転満塁サヨナラホームラン。救援投手にとってこれ以上の屈辱はない。プロ野球史に名を残すことになるこの場面、稲葉はもちろん勝者としてその名を刻みたいと心から願った。
稲葉はプレートに軸足をセットし、捕手の出すサインを覗き込む。捕手の要求はストライクになるインハイのストレートだった。1球目をどうするか決断ができないまま、セットポジションに着いた。どうしたらいい。長い間合いだった。この長い間合いを島原が嫌った。彼は軽く右手を挙げてバッターボックスから離れると、軽くスイングをしながらバットでしきりに腰の当たりをたたいた。島原は緊張が高まると、決まってこの仕草をする。高校以来久しぶりに見る癖だった。
彼らの高校時代、練習試合とはいえ遺恨のチームとの対戦の時、島原の一打に勝敗がかかった場面。監督に活を入れられてバッターボックスに向かった彼は、やはり盛んに自分の腰を叩いていた。彼はサイドスロー投手に全くタイミングがあっていなかった。すぐに追い込まれ、挙げ句の果てにはボール球に手を出し、自打球を足に受けて倒れた。ベンチから駆けつけた稲葉に手当されながら島原はぼやいた。
「俺、打てなくて試合に負けたらどうしよう。監督や皆からどやされちゃうよ。」
「どうして勝つことが俺達にとって大切か知ってるか。」スプレーを吹き付けながら稲葉は言った。
「なぜだ。」
「勝てば嬉しいからだ。」
「じゃあ、負けちゃあいけない理由は、悔しいからってことか。」しばらくの沈黙の後、島原が呆れ顔で言った。
「そうだよ。勝てば嬉しい、負ければ悔しい。今の俺達にとって勝ち負けは、それだけのことさ。」
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