春嵐

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 その後、樋渡くんは絵が苦手そう、と私が言ってしまったせいで、彼はムスッとしてしまった。 『でも、樋渡くんの絵、見てみたいなぁ』  別にフォローのつもりではなかった。ただ単純に、樋渡くんの描いたその絵を、私は見てみたかったのだ。すると、 『じゃあ、一緒に描こう』  ドキッとさせられるくらいはっきりと、そう口にした。私を見るその目は、限りなく真剣なもので、それは、教室では見たことのない、まるで別人みたいな表情だった。  私も、一緒に描きたい。きっと私は、そのようなことを言っただろう。正直なところ、この辺からの記憶はほとんど曖昧だ。いつがいい、と彼に訊かれて、日曜日がいい、と答えたのは、どうにか覚えている。そこからのやり取りを私の頭はメモリーすることなく、眠りを選んだ。  --これは、本当に現実の出来事なのかな、とみんなよりも一足先に帰って制服のままベッドに転がった私は考えた。辛うじて覚えていることも全部、蜃気楼のような不確かさをまとっていて、まるで掴めそうにない。保健室での出来事は全部夢の延長で、汗だくの状態で目覚めた昼休み直前からが初めて現実に足を着けたものじゃないか、とも思ったけれど、鞄の中には、確かに彼が見せてくれた色鉛筆のケースがあった。
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