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「あら、帰ってたの」
玄関前に座って靴を脱いでいると、後ろからお母さんが声をかけてきた。普段とは違ってただいま、も何も言っていない私をいぶかしんでいるのが、肌で伝わってくる。
「晩御飯、用意してあるわよ」
「いらない」
とてもじゃないけれど、今の状態では食べ物がのどを通りそうにない。たとえ、大好きな黒糖ドーナツを前にしても、食指が動かないことだろう。
「何か食べてきたの」
「うん、まあね。とにかく、いらないから」
初めてかもしれない。何の予告もなしに晩御飯をスルーしてしまうなんて。せっかく作ってくれていたのに、と罪悪感を感じないことはないけれど、それ以上に大きく黒い哀しみと不安が、ブラックホールのようにすべてを吸い込んでしまう。今はただ、とにかく現実から逃げ出したくてたまらない。暗い自分の部屋に駆け込んで、トートバッグを放り出す。電気もつけずに、そのまま冷たいベッドに飛び込んだ。うつ伏せのまま、顔を右に向ける。開けっ放しのドアから、部屋のそれとは濃度の違う廊下の闇が長方形に切り取られて見えた。
とにかく、眠ってしまおう。寝て、次に目が覚めたら綺麗さっぱりとはいかなくとも、多少は気持ちだって落ち着くかもしれない。そうだ。たかだかメールが返ってこないだけじゃないか。一度脳の働きを止めてしまうと、そう考えることができるかもしれない。
――何より、もう少し時間が経てば、メールが届くかもしれない。
きっと一番に、私はそのことに期待しているのだ。
これ以上はもう、意識を有したまま待っていられない。
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