序章

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凛とした、張り詰めるも静謐なる空間。 木造建築の道場、その畳の上で互いに構えて対峙する、壮年男性と小柄な少女。 互いに胴着姿であり、腰をやや落とし、半身で相手の動向を窺う。 少女は黒の長髪を後頭部で結い、それでも纏まり切らない垂らした頭髪が、整えた呼気と共に揺れる。 二重の黒の瞳は静寂の中でも鋭利な輝きを携え、血色の良い肌と潤んだ唇は、胸中の穏やかさを顕すように乱れを感じさせない。 幼さを残すも、美しき練者の年の頃は十代半ば。 若き身空なれど、発散する覇気は、対峙する壮年男性の貫禄に引けを取らない。 「……フッ」 「っ!」 張り詰めた静寂の世界に、突如動きが顕れる。 吐き出した呼気と共に、先手を取ったのは少女。 畳上を滑るような独特の歩法で、瞬く間に男性へと肉薄する。 と同時に、突き出した掌底を男性の脇下へと浴びせた。 それに対し、男性は身を捩り真横へ回避、突き出された腕の袖を取ろうとする。 それを少女は察したのか、腕を捩り袖を逸らし掴ませない。 男性は流れるような体捌きで少女の奥襟に手を伸ばそうとするが、即座に軌道を変え、自分と少女の間に左腕を滑り込ませる。 そこに、少女の右肘が強襲する。 男性は腹部を僅かに反らし、更に半歩退く事で威力を殺し、右手で少女の顎先を狙った。 少女は肘打ちの体制だった右腕を跳ね上げそれを弾きつつ右側面に体重を反らす。 それに合わせるように、男性は少女の右足を払った。 「あっ」 軸足を払われ体制が崩れたところに更に襟を取られ、少女は投げられていた。 「……あ~あ、また負けた」 発した言動とは裏腹に、天井を仰ぐ少女はどこか晴れやかだった。 「……蓮(れん)、腕を上げたな」 左脇腹を押さえた男性が見下ろしてくる。 「まさか、あの体制で反撃されるとはな… だが、堪え性が無いのは相変わらずか」 「父さん、隙なんかないじゃん。 何回『寸動』と『虚動』混じえたと思ってるのさ? 待ってたら日が暮れちゃうよ。 これから啓介(けいすけ)と約束あるんだから」 溜め息を吐きつつ、少女…蓮は、その場に立ち上がる。 「……蓮」 「何も言わないで。  いつか、整理は付けるよ。 でも、今は…まだ諦めたくないんだ」 「……そうか」 父の憂いをその場に置き去り、蓮は、道場を後にした。
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