―第壱章―

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男がそう言ってキャリーバッグを叩いたとき、電車のアナウンスが流れた。 『次は――蒼天中央駅……蒼天中央駅です。乗り換えのご案内です……』 「やっと座れたと思ったらもう着いてしまいましたな……世の中うまくいかないものです。何事も」 男はそう言って肩を竦める。 「短い間でしたが、ご一緒できて楽しかった――貴方のお名前をうかがっても宜しいですかな?」 男は目をスッと細めて笑った。 (この男、『同業』だな――) 青年は片眉を僅かに顰めると唇の端を歪めて笑みを返す。 「残念ですが……初対面の方には、向こうが名乗らない限りこちらからは名乗らぬことにしています」 男は大袈裟に肩を竦めると、額に手を当てた。 「それは失敬……せっかくのご縁ですからお名前を、と思ったのですが」 その時、電車がゆっくりと減速を始めた。駅が近づいたのだ。 「駅に着いたようですね……名残惜しいのですが、お別れです」 青年は男の片眼鏡を見据えて言った。口許に笑みを浮かべているが、その瞳は鋭い。 男は青年の視線を鼻で笑って受け流すと、音もなく立ち上がった。 「それは残念。しかし、貴方とはまたお会いできる気がしますよ」 「――そうですか」 軽く会釈してゆったりと通路を歩く男の背中を、青年は厳しい表情で見送る。 車両と車両を繋ぐドアが閉まる瞬間、男は青年を振り向いてニヤリと笑った。 「来て早々、妙な縁を結んだものだな……」 青年は苦笑すると、旅行鞄を抱えて男とは反対の車両に歩いていった。
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