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幸隆さんが歴史の表舞台に出てくるのは1541年(天文十年)
海野平の合戦というのがありました。
甲斐を平定した武田信虎(信玄の父)それまで武田と抗戦していたが武田との婚姻で同盟関係になった信濃の諏訪頼重、北信濃の村上義清らの連合軍に海野平が攻められ海野棟綱(幸隆の父?主君?)や幸隆さんが上州(群馬)の関東官領 上杉憲政を頼り敗走します。
この敗戦で上杉憲政の家臣、長野業政の下で客分的な生活を余儀無くされますが、この長野業政との出会いが後々の謀将と呼ばれた彼に多少なりとも影響があったのではなかろうか?と勝手に思っております。
さてこの長野さんですが、山内上杉氏の家宰でして
後に信玄に「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」とまで言わせた猛将です。
剣聖で有名な上泉信綱を始めとする長野16槍と呼ばれる配下もおり、上杉氏が越後に敗走したあとも、箕輪城で信玄相手に病死するまで戦っていました。
そんな長野さん家でお世話になってる間
1542年(天文11年)次男の昌輝が生まれています。ちなみに嫡男の信綱は1537年(天文6年)生まれですから、海野平の敗走時は4歳ぐらいですかね。
1544年(天文13年)諸説ありますが、ロマンのある説を用いて当時、武田で足軽大将だった山本勘助の推挙により、武田へ臣従することとなります。
山本勘助ですが、近年まで実在したかどうかも不明の人物との評価もありましたが、偉い先生方のおかげで実在した人物である事が有力視されてきてますね。
幸隆さんと勘助さんとのつながりが気になるところですが・・・
ここは皆さんの想像でカバーして下さいw
さて、そんなこんなでかつての敵でありながらも源氏のビッグネーム甲斐武田に仕える事になった幸隆さんが戦国の表舞台に登場します。
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