ある女性

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「どうする?」  井上がもう一度、私に聞いてきた。犯罪者とはいえ、記憶を失っている以上、医者の観点からしてみれば患者だ。患者を警察に突き出すのは忍びなかった。  悩んだ挙げ句、私は口を開き、 「分かった。彼女は私が引き受けよう」  井上に言った。  記憶が無ければ、一般人と何ら変わらない。むしろ、記憶を失い純真無垢になった分、他の人に比べると、いくらか表情が豊かだ。彼女が殺人犯であるという事実を忘れそうになる。  私は彼女を経過観察するという名目で井上から引き継ぎ、自宅で一緒に過ごすことにした。記憶を失っているとはいえ、基本的な生活ができない訳ではない。普通に喋ることもできるし、料理だって作れる。よほど、腕がいいのか、彼女の料理はどれも素晴らしく味が良かった。  私が喜んで彼女の料理を食べていると、彼女は自然に微笑みを浮かべてくれた。  私は、その表情を見ているだけで、心が穏やかになり、至福というのを初めて実感した。  経過はどうであれ、私は医者という立場でありながら、患者である彼女を大切に思うようになり、結婚を申し込んだ。彼女は、その申し入れを快く受けてくれた。  そして、現在も彼女の治療は続いていた。治療といっても、何もしていない。ただ普通に生活をさせているだけだ。私は彼女が起こした事件の担当者に、この治療が一番、適切だと説明をした。向こうも時効というのが無くなった今となっては、焦る必要もないと思い待ってくれる。  いずれ事件は風化するだろうだが、彼女の罪が消えるという訳ではない。それでも、私は彼女と一緒に夫婦として生涯を共に過ごしていきない。そう、心の中で願うようになっていた。  最近では、私は毎朝、教会に通い彼女の記憶が戻らないことを祈っていた。何かのキッカケで記憶が蘇るかもしれない。今のところ、その傾向は見られないのが幸いだ。起きて、寝て、掃除をして、洗濯をして、料理をして、そんなごく当たり前の生活を彼女は送っていた。  私は祈る。どうか、その日が永遠にこないでほしいと。
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