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春の初めは鮮やかだ。白い梅や、紅の梅が枝に一つ咲くだけで、冷たい空気がふっと軽やかになる。
それが、満開になれば春が来たと告げる強い風が吹く。
風は花粉だの、黄砂だの……春霞を運び、春霞は冬の凍ったように動かない張り詰めた空を緩めて、柔らかな春空を作る。
世界はゆっくりと冬の死んだような眠りから、微睡みつつも醒めていく。
そんな中、まだ桜は眠っている。
薄い萌木色のような、その花の色のような蕾は静かに膨らんで、弾ける瞬間を待っている。
まだ、あまり眺められるものではない桜を、その少年は熱心に眺めていた。
病院着を着ている彼は、同年代の者よりは、絶望を良く知っているらしく、諦めと暗い憂いを含んだ表情で、蕾を見上げていた。
「…………気になるか」
ふいに背後から声をかけられて、ゆるゆると少年は振り向いた。
そこにはこの場所に不釣り合いな格好をした男がいた。
喪服のように真っ黒で明治の学生のような格好の男は、静かに桜を見上げる。
「…………」
こくりと少年が頷くと、
「そうか」
と冷たい声で答えて
「そろそろ、今年の仕事の成果が陽の目を見る」
と言った。
「今年も、綺麗な花だろう」
「…………」
少年は寂しそうに
「もう、無理ですよ」
と言う。
「…………そうか」
男は少年に背を向ける。
「近い内に迎えに行こう」
と歩いて来る。
「君もだ」
目が合う。
夏、ジリジリと焼ける暑さの中で汗を拭いながら、
秋、積み重なった落ち葉を掻き分けながら、
冬、白く積もった雪をどかし、悴む手を暖めながら、
桜の根本に穴を掘る男の姿が浮かんだ。
「君も、迎えに行く」
男は傍らを通り抜ける。
ナニヲ
振り向けば男はいない
ウメテイル?
鶯がへたくそに
「ぴけきょ」
と鳴いた。
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