桜と火付けと春爛漫

2/10
前へ
/53ページ
次へ
薬種問屋永北屋の番頭である籐平はすっかり暗くなった夜の町を大慌てで走っていた。 はぁ…あっしもついていない…お時さんに捕まるなんて…。 彼は、永北屋からは京の反対側にある金谷様のお屋敷まで薬を売りに行った帰りである。 店の舵取りである番頭が直々に出向くのはお武家相手の時だけ。 その上その帰りに長話で有名な金物屋のお時に捕まってしまい長話につきあわされていたのだ。 可哀想に籐平は刀持ち相手に神経を擦り切らした帰りにまた違った意味で神経を擦り切らすことになったのだ。 あぁ、やっと千住稲荷まで帰ってきたよ。 籐平は店とさほど離れていない、千年前からそこにあるという稲荷神社の赤い鳥居を横目に見てほっとため息をつく。 近頃の京の都といったら物騒なことこの上ない。 やれ、長州 やれ、壬生浪の世なのだ。 町人身分の彼らの預かり知らぬところで侍たちがいがみ合っている。 いつ誰それと間違われて斬られたもんじゃない。 そのため、夜になると京の町は猫の子一匹いないぐらい静かになる。 京の町に住むものからしたら刀持ちの事情など迷惑以外の何者でもないのだ。 しかも、最近は近く戦が起こるとまで言われ、ますます物騒この上ない世の中になっている。 もちろん、今道を急いでいるのも籐平だけだった。 今は春真っ盛り。 走りながら籐平はふと顔を上げる。いつの間にか鴨川沿いに出ていたようで、目の前をどこまでも続く桜並木が闇夜に桃色の花が美しく映えていた。 昔ならば、酔いつぶれるまで宴を開く刀持ちやらで賑やかな並木も時勢の影響かただ美しく桜のみが咲くだけの並木になっている。 しかし、桜は桜。 限りなく満月に近い楕円形の月の明かりに照らされた臼紅色の花弁は見るものを引きつける。 籐平は急ぐのも忘れ、足を止めてしばらくそれに見とれる。 桜はこんな世でも美しいなぁ…。 なんだか焦っている自分が馬鹿馬鹿しくなり籐平はため息をついた。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加