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松屋の横には如月桜と呼ばれる桜の樹が一本あり、その美しい花を満開にしている。それを見ると改めて春がきたのだと感じられる。
〈へっ、籐平の奴鬼火ごときに腰を抜かすとはねぇ。もう少し肝の据わった男だと思っていたのに…。〉
先程の声が浅葱に語り掛ける。如月桜の周りに並べられた長椅子に座って美味な甘味に舌鼓をうっている客にはその声は聞こえない。
その椅子の一つに座っていた女性二人が立ち上がる。
浅葱はすかさず笑顔を浮かべる。
「ありがとうございました。」
そして、そういうと皿や湯飲みをお盆に回収する。
言われた女性達は顔を赤めると「おいしかったわ。」とか「またくるわ」と言いながら立ち去って行った。
<ケッ!俺を無視して人間の女に尻尾振りやがって。>
また声は不機嫌そうに言った。
「白夜…いい加減に黙らないか。ほかの人間に聞かれたらもう駒屋さんの天ぷら食べられなくなるよ?」
浅葱は皿を片づけながら懐に向けて小声で話しかける。
<そりゃ困る。>
声は慌てたようにそう言うと黙り込んだ。
まったく…本当に大妖怪なんだかわからないね
その言葉に苦笑しながら皿を片づけると店に戻る。
「浅葱、籐平さんのお疲れ様。」
「梅吉…見てたなら助けておくれよ。」
「それじゃあ楽しくないじゃないか。せっかく美丈夫が困ってるんだ、もっと困ればいい。」
そう言ってニヤリと笑うのは浅葱と同じ松屋の奉公人の梅吉。一見、意地の悪いことをいっているようだが年の近い二人にとっては軽い冗談である。
事実、浅葱も苦笑している。
「おぉ、浅葱お疲れ。旦那様が少し休んで構わないだそうだ。」
調理場からそう言って顔を出したのは、和彦。
二人よりも少し年上の兄貴分である彼は、接客はせずにずっと菓子作りに従事している。
今もたすき掛けをした着流しの裾をさらにまくり、手にも餅粉が付いている。
「良いんですか?まだお客が入る時間でしょうに。」
「昼前からずっと籐平の旦那の話しにつきあってたんだ、何もくってねぇだろ。ありがたく休んどけ。」
「は、はぁ。」
浅葱は眉をひそめながら渋々頷いた。
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