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三月八日、江戸を出発したのは約二百五十人。有象無象の寄せ集めの集団は、浪士組と称され、大小様々な問題をはらみながらも、十五日後の二十三日に、京の南西に位置する壬生村に旅の荷を解いた。
浪士組は幾つかの民家に分宿することになった。
近藤たちは八木源之丞邸の離れに宿泊した。同宿人数は十三人。水戸脱藩浪士、芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司ら、芹沢派と、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田佐之助、藤堂平助、井上源三郎ら、近藤派とに別れていた。
しかしながら、長い旅路を共にした者同士は、ある種の達成感を共有した為か、この時点では互いに友好的だった。
十五日かけて辿り着いた八木邸は、彼らにとって久々の安息を照らす明かりのように、暖かかった。
「これから、我々は御公儀のために働ける。」
近藤や土方は将軍御上洛に夢を馳せ、沖田や藤堂は、若さゆえ、食べ物や御所、二条城といった名所など、半ば観光気分で語り合い、永倉、原田は早速庭で木刀を振り、井上と山南はその様子をにこやかに眺めていた。
芹沢たちも、少ない荷物を片付けると、酒を呑みはじめるなど、各々がくつろいでいた。そして、その夜、主だった浪士らに新徳寺に集まるようにという連絡が入る。
近藤らはすぐさま新徳寺に向かい、芹沢らも渋々ながら出向いた。そこで、この浪士組を献策した清河八郎は、
「御所に権言するが、各々方、異論は在るまいな」
と、睨みつけるような目で言ったのだ。
勿論、近藤や芹沢たちも望は尊皇攘夷であったから、異論はなかった。だからこそ、それを文章にしたものに、全員揃って、署名をした。しかし、その時すでに文章の魔術かかっていたことに、誰も気付いていなかった。
『幕府御世話にて上京仕候得共、禄位等は相受不申、只々尊攘之大義奉相期候間』
この一文が、こっそりと長い文章の中に隠れていたのだ。
誰もが疲れている中で詳しく読むほど疑ってもいなかった。
そして、浪士達の署名を添えたこの書面は、翌日、清河によって御所内の学習院へ提出された。
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