恋を覚えた1944冬

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俗に「レイテ沖海戦」と呼ばれる海戦で、私は米海軍の護衛空母一隻を沈めるに留まった。その代り、私は米軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中。砲塔を直撃した爆弾は、砲塔天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。また前甲板の爆弾は鋲座庫付近に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した。 十月二十四日、その海戦のさなか、私の二番目の妹の武蔵が米海軍の集中攻撃で死んだ。並みの戦艦以上の耐久性を証明したと話はあったが死んだことに変わりない。此の事は私に乗艦していた宇垣纏(ウガキ マトメ)司令も悲しんでいた。 勿論私も例外ではない。長崎弁で人懐っこく、「姉上」と呼んでくれた自慢の妹が戦没したという報を聞いた時は涙が止まらなかった。そして自分の死も覚悟した。決して私は不沈戦艦ではないと。 本土への帰投途中の十一月二十一日。台湾沖で私の大先輩で先生だった戦艦金剛が沈没、愛する人と亡くなった。愛する人の名前を何度も呟く言葉が耳に残った。そして護衛の駆逐艦浦風が沈没した。 そして彼女の最期の表情は何故か幸せそうだったのを覚えている。 十一月二十三日、私達は呉に帰投した。宇垣中将は退艦、森下信衛(モリシタ ノブエ)四代目艦長にかわって有賀幸作(アルガ コウサク)大佐が五代目艦長となった。 十一月二十九日、私の妹信濃が完全な空母として完成もすることなく沈没した。浜松沖で米潜水艦の攻撃を受け、紀伊半島沖で沈没したという。一回も顔を合せなかった。 無情だった。呉の会議室の中で私は一人立ち尽くした。そして一日中涙が止まらなかった。 仲間はいたのだが私にとっつきにくかったらしく、仲間の軍艦達は誰も話しかけてこない。更に海軍に関わる人間も私には 「妹が二人も死んで可愛そうだね」 という言葉しかかけてこなかった。それ以外の話もして欲しかった。 そんな折、私に若い新人士官が配属された。名を「佐竹四郎(サタケ シロウ)」。階級は少尉。 この人が私の日々を一変させた。
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