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彼はほんの興味本位でその赤ん坊に近づいていった。
そして、何かを掴もうとする赤ん坊のその手にそっと指を当てる。
すると驚いた事に、赤ん坊は彼の指をしっかりと掴んでいた。
今まで彼を視認する事はできても、彼に触れることのできる者は一切いなかった。
その経験から今度も同じだと高を括っていた彼は、驚きのあまり畳の床に足を着いていた。
そして同時に、今まで感じることのなかった高揚感と戸惑いが彼の中に生まれた。
初めて味わう、生命という時を刻み、子を産み育むことのできる生き物だけが持つ"温もり"。
彼や、彼のような存在は決して持ちえないそれに、どう接すればいいか分からずにいた。
彼がそんなことを思っていると、不意に彼の手に母親の手が重なって、母親の手は彼の手をすり抜けていた。
彼はそれを見ると、我に帰ったかのようにおもむろに宙に浮き、少し哀しそうな表情を残して天井から出て行った。
やがて星が空を埋め尽くすほどに広がる時間になると、医者も帰り、家の者たちも普段より少し遅い夕餉を摂ってから、それぞれの部屋へと戻っていった。
母屋の一番奥にある部屋に灯る蝋燭の淡い光だけを残して、杜氏の屋敷は闇と静寂に包まれ、まるで時が止まったかのように錯覚させた。
屋敷の最奥ーー歴代の当主以外は決して入ることのないこの部屋に、現当主、杜重衡(モリ シゲヒラ)が腰を据えていた。
「守宮、頼みがある」
重衡がどこを見るでもなくそう呟くと、彼の正面にすぅっと音もなく何かが現れた。
それは人の形をしていた。
全体的に緑で統一された容姿のせいか、雪のように白い肌と黄色の瞳が異様な存在感を放っていた。
表情の無いそれは、自然な動きで懐から煙管を取り出し、火を付け、白い煙を燻らせた。
「まずは礼を言いたい。あの子を救ってくれたのはお前だろう?
本当に感謝する」
そう言って重衡は深く頭を下げる。
「気まぐれだ。それに生命が絶えるというのは見ていて気分のいいものではない」
その声はしわがれたような、透き通ったような、まるで直接頭に入ってくるようなとても不思議な声だった。
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