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確か、この日記帳を買ったのはまだ静がこの世に生まれていない頃のことだったと記憶しています。毎日の体温、体重、食事内容、その日に行った胎教の内容が事細やかに記されていて、昔の私はこんなに熱心だったのかと思わず感心してしまいました。今思えば、静が物音に敏感なのは、お腹の中にいる静に毎日モーツァルトやチャイコフスキーを聴かせていたからかもしれません。
私が今この続きを書こうと思い立ったのは、私室の掃除中に偶然この日記帳を見つけたから、あるいは、そのページが半分も埋まらないまま途切れていたから――、どちらも本当のことですが、正しくはありません。きっと、いまこの胸にわだかまっているどす黒いものを、行き場のない無力感を、誰にも聞いてほしくない気持ちを、どこかに吐き出したいからです。
私が一人目の子供を孕んだ時のことから記していきます。
私の夫、雨宮と知り合ったのは、私が大学生の時です。大嫌いだった親から離れて上京し、勉学に遊びにアルバイトにと、今と同様、忙しい日々を送っていました。親からの仕送りには手を付けまいとしていたのです。傍から見れば親孝行な娘ですが、卒業したらこのお金をそのままそっくり返し、私のことを散々馬鹿にしてきた父と母を見返してやろう、と、その動機は汚いものでした。……親のことは思い出すだけで苦しいので、本題に戻します。
雨宮は実習先の小学校で教師をしていました。
黒髪の下にある青い瞳、筋の通った鼻に色味が薄くかたちのいい唇。その顔立ちはまるで人形のようで、実習生の中で専らの話題になるような人でした。最初は事務的なことしか話さなかったのですが、いろいろなことを聞き、お世話になるうち、いつの間にか雨宮の小さな仕草ひとつひとつを目で追い掛けるようになり、気づけば彼のことばかりを考えるようになっていました。
声、言葉選び、笑顔、子供たちに対する熱心な姿勢。指を動かすたび、手の甲に浮かぶ細い筋。ふとした時に見せる子供っぽい表情。なにもかもが私の目を捉えて離さなかったのです。
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