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子供のようにはしゃぐ中川を、山井は目を細めて見ていた。
確かに酷い原稿であった。だが、この記事を読んだ人間は、間違いなく今よりボクシングが好きになるだろう。あの試合を見た者が読めば、必ず胸を熱くするだろう。そして、伊庭の次の試合を、ムガベの次の試合を、絶対に見たいと思うだろう。ならば、この記事で良い。
「おい中川、今夜は飲みに行くぜ。おまえの奢りだ」
「ええー? 俺の奢りっすかぁ?」
「あったりめーだ。おまえは俺の仕事を横取りしやがったんだぞ。嫌だなんて言ってみろ、俺様の右フックが火を吹くぜ」
山井がそう言って立ち上がり、ぶんぶんと腕を振り回す。
中川の顔には苦笑が浮かんでいる。
「山井さん、足元がフラついてますよ。もう五十過ぎてるんだから、無茶はやめましょうよ」
「あ? なんだとコラ。まだおまえなんかに負けねぇぞ。やってみるか?」
「やりませんよ。第一、俺と山井さんじゃ階級が違い過ぎる」
中川の言葉に岡村が声をたてて笑い出した。
「中川とやりたきゃまずダイエットしてそのビールっ腹を引っ込めねぇとなぁ山井。ウェイトオーバーで失格だ」
「あ、ひでぇな。そういう編集長こそ、そのメタボ腹をなんとかしないと、還暦まで持ちませんぜ」
「なんだとこの野郎」
岡村が立ち上がって上着を脱ぐ。
山井のほうは相変わらず腕を振り回してやる気満々だ。
中川は懸命に笑いを噛み殺している。
これはどっちが勝っても記事にはなりそうもない。
- 了 -
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