炭の章 山本 愛子

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男は顔を押さえてのけぞり、またバランスを崩して壁に頭を強打する。 【十秒。女はそれ以上の時間をかけない】 ──そうだわ、こんなに時間をかけている場合じゃないのよ。 ──ところであれは、誰の言葉だったかしら。 私は声にならない悲鳴をあげる男の上にまたがって座り、ためらいも無く首筋に包丁を突き立てた。 「……っ!」 刃と皮膚の間から真っ黒な液体が溢れ、包丁を抜くにつれそれは勢いを増し、私の服に、新たな無数のシミを作った。 男は一瞬目を見開いたかと思うと、黒目を小刻みに泳がせる。 男の両手、両足はガクガクと振動していた。 転がり落ちるように男から離れ、ふいに手に触れた紙切れを何気なく開く。 【華麗で美しい殺人鬼。私は貴女の産み出した存在に、魅了されている】 ──ああ、そうね。そうなのよ、私は華麗な殺人鬼。 すぐに忘れてしまう自分の有るべき姿を忘れてはいけないと、私はさっきテーブルから転がり落ちたボールペンを拾った。 忘れない様に、書いておけば良い。 ──何て? ──いけない。まただわ。  
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