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 林教授が受け持つこのゼミナール、いわゆる林教室は、八人のゼミ生で構成されていた。その内の七人までは当然遅刻しないよう、十分は早く教室に着いていた。それなのに、松井光勇だけが姿を現さない。それだけでも反感を買うには十分だが、それ以前から松井はこのゼミの鼻つまみ者だった。作業は遅い、遅くても正確ならまだ許せるのだが、内容は間違いだらけ、誤字脱字も多く、他のゼミ生に迷惑ばかりを掛けていた。決して、成績が悪いわけでは無いのだが、やたらと手を抜きたがるという悪癖があった。いわゆる根気が無いのだ。それだけなら、駄目なやつだというレッテルを貼るだけで良いのだが、極めつけはストーカー問題だった。一回生の時、松井は上級生をストーキングし、対象の女性をひどく傷つけた、そういう噂が流れていたが、その時点では確証が無かったため、不問に付された。しかし、今年の三月、松井は同じような事件を起こしたのだ。そのため、三年前の件もやはり事実なのだろう、と、ゼミ内、ひいては大学内全体に暗黙の内に了解された。それ以来、いや、それ以前からある程度その兆候はあったのだが、松井は完全に孤立していた。 「誰か、電話しろよ?」  淡路が言う。半袖から突き出た日焼けした太い腕が、彼がスポーツマンである事を示していた。快活でリーダーシップの強い人間で、このゼミの主導権はたいてい彼が握っていた。
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