プロローグ

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「お前は贋作(ニセモノ)に価値はあると思うかい?」  老人の声がする。彼の幾重か折り畳まれた皺のある喉から発せられたそれは、年相応の重厚な響きはなく、彼自身の物腰の柔らかさをそのままに表す、はっきりした声音だった。  彼は腰掛ける安楽椅子に体を揺られながら、細々と呟く。 「贋作は所詮贋作、そう断じてしまうのは至極容易い。余りにもな。問題は、贋作が存在することで、真作(ホンモノ)の価値が下がるかどうかだ」  老人はある部屋の中にいた。天井に近い位置にある小窓から差し込む僅かな陽光以外に光源はなく、しかし部屋の広さは二十畳余りある為、光の影響は入り口付近にしか及ばない。    よもや独房かと思われかねないそこは、しかし屋根裏部屋だった。  彼は誰かにそこへ幽閉されたのではなく、自らそこに閉じ籠もった。言い換えるならば、彼を閉じ込めた人間が存在するとしたら、それは彼自身だった。  屋根も、壁も、天井も、部屋を構成する要素の全てが、己が身を守る為の盾だという考えが彼の頭の中にあって、部屋自体が彼の防衛本能の体現した形だった。扉さえ、自分が部屋に入る為にやむなく付けただけ、とでも言いたげだ。  家具調度品の類といえば、机と本棚と寝床のみ、という簡素な構えをしていた。  では娯楽と呼べるものが全くないかと言えばそうではなく、部屋の片隅には、イーゼルに乗せられた一枚の白地のカンバス。  その傍にある丸テーブルには、下書き用の細く削られた黒炭、油絵の具の入った小瓶が数本と、太さ長さの違う筆やハケが何本か、木製のパレットなどが無造作に広げられている。 「贋作の存在自体が真作の価値を下げ、真作の地位を脅かすなら、贋作はやはり存在すべきではないのかもしれない。なあ、お前もそう思うだろう?」  老人には話し相手がいた。そしてそれは、何を隠そう、隠しようもない、彼自身だった。部屋にいるのは、老人、ただ独りきりだった。 「いいや。私はそうは思わない。贋作が存在することで、多くの者が充足感を味わうことが出来るのだ。そして表現という行為、それ自体に罪は無いのだ。  醜いものは美しく、美しいものはより美しく見せることも出来る。真っ白な布の一点の穢れを掻き消すのだぞ?」
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