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老人の中には、二人の人間が棲んでいた。
それぞれの価値観を持ち、
それぞれの生き様を培い、
それぞれに生き方を模索した人間が。
人格が分裂していた、という単純な話ではなく、個々のものの見方というものを彼自身が理解していて、彼の頭の中で二人の人間を戦わせている。
つまり、二人の他に第三者的な見方をする者が更にもう一人いて、それこそが彼自身、いや、厳密に言えば、どれも彼自身なのだ。
そして彼がそんなことをする理由はただ一つ、彼と対等に会話を出来る人間が彼しかいなかった、というだけの話だった。
「しかし、そんなものはただのまやかしだ。絵に描かれた人間に口づけたところで、一体お前の何が満たされるというのだ? それはただの自己満足ではないのか? 一点の穢れがある、その事実をごまかすことは出来ても、消すことは出来ない」
「自己を満足させて何が悪い? 自己の欲求を満たすことこそ、人間の為すべきことではないのか?」
「飽くなき自己満足の行き着く先には、絶望しかないのさ。人の欲望には限界がないということさえ、まやかしに過ぎない。人間が完璧な存在になってしまえば、それは即ち発展の終わりを意味する。
完成された社会だからこそ、今以上の発展を望まなくなる。そして望まなくなったら、その時こそ人間は終わる。
誇張表現は進化ではなく、寧ろ退化であるとさえ言える」
相手は押し黙った。というより、相手の側のこれ以上の反論は思い浮かばない。
「だが実際には、所詮私も一人の人間だった、そういうことか…」
老人は呟いた。彼ほどの才を以ってしても、この世のどんな問題も解決出来るという自負はないし、そんなものはただの驕りだと考えてすらいる。
が、少なくとも人々が頭を抱えている問題――スケールの大小に関わらず――その端緒を手繰り寄せれば、その原因を突き止め、対処する方法を考えることは、彼にとっては大した労苦でもない。
老人は思索を一時の戯(たわむ)れと割り切って、のそりと腰を上げ、テーブルの上の黒炭を手に執る。だが、彼はそれらの動作の間にも、自らの握力の衰えを感じていた。
「潮時、か…。もう、私には…」
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