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晟雅は晟雅で、せねばならぬことを抱えた身である。
紫翳を案ずる気持ちはあっても、なかなか様子を見に行く時間がない。
「……分からぬものだな。宇山晟雅よ、何ゆえ貴様は、そうも紫翳の身を案じる?」
「紫翳から聞いていないなら、俺から語るつもりはないし、紫翳から聞いていることがあるなら、それ以上を語るつもりはない」
「……主」
乾がそっと咎める。
要するに語る気はないのだと、皮肉を籠めた言い方をしたせいだ。
「蜥蜴。正直に言って、俺はお前を信用していない。会って間もない奴に言うことではないが、これは本音だ」
「さもあろう」
蜥蜴がうっそりと笑う。
「我は冥{くら}に魂を置く存在。お前の懸念するように、その気になれば、容易く紫翳をこちら側へ引き寄せることもできる。冥の底には華が開{ひら}いている。あれに囚われれば、紫翳は瞬く間に闇に染まるだろう。そして我なれば、紫翳をあの華に近づけるは雑作もないこと。
「冥に生ける者もまた、紫翳を疎んじ、忌み嫌っている。あの男は、我らが静けき冥を乱した。あれが厄災だ」
晟雅は無言で蜥蜴を睨んだ。
真っ向から冥の眼を睥睨する命知らずなど、まずいない。
紫翳がそうできるのは、彼が冥に魂の半分を置いているからに他ならない。
「あの男は人にあらず。また、魔にもあらず。人とは本来、陽と陰を併せ持ち、陰陽師はその均衡を保ち、また操{く}る。それ故、あの男の陰に傾き過ぎた魂は、いつでもあの男を冥に引きずり込めるのだ。あれの危うさは、冥の底に咲く華には何よりの餌{え}よ。
「宇山晟雅よ。それでも尚、貴様はあの男を案ずるか?」
冥の底に咲く、大輪の華。
見たことはないが、それは甘い甘い蜜を滴らせる、美しい華だと聞いている。
芳{かぐわ}しい芳香は、人も鬼も引き寄せる、死の誘惑。
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