占守島の戦い

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ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に上陸地点への射撃を命ずるとともに、池田末男大佐(死後、少将へ進級)率いる戦車第11連隊に対し師団工兵隊の一部とともに国端方面け、その他の隷下部隊を国端崎へ前進しようとした。 戦車第11連隊は、18日午前5時半頃から連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って撃退し、四嶺山北斜面のソ連軍も後退させた。ソ連軍は対戦車火器(対戦車砲4門のほか対戦車銃約100挺)を結集して激しく抵抗を始め、日本戦車を次々と擱座・撃破したが、四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃を受け、駆け付けてきた独歩第283大隊も残存戦車を先頭に参戦すると、多数の遺棄死体を残して竹田浜方面に撤退した。戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を出した。 その後、日本側の独歩第283大隊は国端崎に向け前進し、ソ連軍が既に占領していた防備の要所を奪還した。ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、激しい戦闘となった。独歩第283大隊は大隊長が重傷を負い、副官以下50名余が戦死しながらも、要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南側への集結を援護することに成功した。この戦闘の間、ロパトカ岬からソ連軍130mm砲4門が射撃を行ったのに対し、四嶺山の日本軍15cm加農砲1門が応戦して全門の制圧を報じている。 18日午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車第11連隊と歩兵第73旅団主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼及び後方に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となった。昼ごろに第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、18日16時をもって積極戦闘を停止することとした。しかし、実際には戦闘は続いた。夜までには、幌筵島の第74旅団も主力の占守島転進を終え主力の占守島転進を終えた。ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして海上輸送の攻撃を行ったが、阻止するには至らなかった。 樋口は大本営に現状を報告、大本営はマッカーサーにスターリンへの停戦の働きかけを依頼したが、スターリンはこれを黙殺した。
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